萌える男

あまりにもツッコミどころ多い、本田透『萌える男』

イキナリ冒頭からかます萌える男は正しい」宣言。煽りすぎ。そんな押し出しはマズいだろー。たとえそれが、孤高の非現実だろーが、ハタ迷惑なオレ様妄想だろーが、そもそもマスターベーション〜複数関係を伴った性行為を実践するセックス・コンシャスを含めたライフスタイルとその多様な選択枝は趣味の範疇、個人の自由意志。各自勝手に(自己責任で)ラヴラヴになるなり燃えるなり萌えるなりサメるなり萎えるなり降りるなり諦念するなり絶望するなり無視するなりして観念してれば、それでいーのである。正/不正をハク付けすることがらでは毛頭ない。
なのに自己正当化を主眼としてしまったトーンが濃厚な本書は、『電波男』『電波大戦』とは違って、その分だけ無理に無理を重ねて至る所ベタとなったネタの再構築を「脳内妄想」に束ねるという方法論の飛躍強調に始終した結果、論証放棄となり、非モテルサンチマンで息苦しい読後感を与える。

岸田幻想論を根拠に「(恋愛資本主義的)恋愛」の虚を言い立てているのだが、その論理スジでいくのなら、一方的独我論でしかない「(脳内)恋愛」はさらに大いなる虚=幻想でしかない。で、さらに西欧キリスト教的恋愛(結婚)観だの、ニーチェだの吉本共同幻想論まで出てきて、はー、大騒ぎ。前提を別視点でもって検証したり検討する道ではなく、とにもかくにも今の自分を肯定させる前提を存在させる為に必死になっている。「萌える男」ぢゃなっくって、「アタシがいて、このアタシが考えることがアタシの存在証明で、それは正しい」ってことなんでしょー。要は、ワレ想う故に在るワレ…っていうアレだなー。

〈乙女〉の使用方法

〈乙女回路〉を持つ萌える男だからこそ、女性に優しく純情でDV等の犯罪を犯さないと書かれてるが、これは一番頂けない。乙女ゴゴロが判りそれを実践してるから、現実の女性に優しいって、なーんやその押しつけわ?女性は生む性=母性を持つからこそ優しく平和な存在だっていう論調と同じなんだなぁ。だったらナンデ〈乙女回路〉男は、そんなにも理解してる筈の女性と対等の個人了解がもてなくて、ギスギス脊髄反応して「神聖不可侵な絶対論」をこしらえなければならない程、足場亡くしてコジレてくるんだぁ(苦笑)>id:hizzz:20050829 過去にさんざんカキコしてきたが、そもそも〈乙女〉もしくは〈少女〉なる概念は、筆者がさんざん批判してきた西欧キリスト教文化からなる女学校から来歴したもので、それは近代資本主義的〈男女〉思想である。id:hizzz:20040524#p3。
特にメイドや妹萌え等の、落差ゆえに萌える非対称なあやうい関係ラインに対する、「萌えは恋愛および家族を復権させようとする精神運動」主張は、かっての「オタクだからこそ女の子をまもります」宣言と同じ臭みがする。ヒギンズ教授がイライザとの関係を正当化する為に等々と開陳する論理(映画マイフェアレディ)である。そしてそれは90年代のナイトを気取った「フェミ男」のマチズモ(フェミニズム理論をも完全に解してやれる思いやり溢れて慈悲深いオレ様は全知全能の尊父)と同じ轍を踏んでしまっている、素朴な共同幻想の現代転用そのものである。id:hizzz:20040405#p3 したから平等主義フェミズム=他者への反撃ー体制保守論となり、その対処法は本田の過去本では「護身」と表現されることで、かろうじてセンシティブなライン引きしたようにも見える、棲み分け的論調だったのだ。
が、今回なにしろ「正しい宣言」してしまっては、ジェンダー上下構造を自己使用目的でもって肯定するソレ(自己支配貫徹の為の従属支配形態の決定権を自己が握った上での再分配固定構想)は、ドコまでいってもDV者が繰り出す典型的支配論=アメとムチの主観論でしかない。所有可能性というのは破壊可能性も意味する。だからこういうカタチをとる正当化論は、(たとえその論者の性別や性的志向性がどうであれ)常に恣意的なものであり、万人に通用出来うる普遍とはほど遠い。目的と手段の関係は、それが予め決定された目的に対して適切(有効)か不適かどうかというミニマムなプロセスにダケ問題となることであり、目的は手段を正統化しないし、その反対、手段=〈乙女回路〉=形式も、目的=脳内妄想=内容をなんら正統化しないからだ。トランスジェンダー的な意識や「〈弱者〉配慮」を全面に押し出したとしても、それは他性に対する自己無謬性の証明=自己責任性からの離脱と自己正当性には、1ミリにもならないが、世間では実にこの手の摺り替え論をもって良しとする向きが多い。

悪しき〈母〉

さてさて、それではどうしてこういう無理に無理を重ねたフレームを選び、クローズアップさせたそれを正当化させなければ、存在基盤がもたないのか=方法論的動機ということが、このハナシの最大の核心である。で、果たして、でて参りましたよ、奥さん。


僕の母親は子供を自己の延長・分身として支配しようとするタイプの人間で、僕が自立するような動きをすべて封殺し続けた。…そのような母子関係を最初に与えられた結果、どういうわけか僕には成長してからも母親に似たヒステリー性の支配的な女性にばかり狙われる・あるいはひかれるようになってしまい、まともな意味での恋愛関係をまったく構築できない人間になっていたのだった。


やっといえた親の悪口という、伝家の宝刀id:hizzz:20031027#p5。ベタ中のベタ。主体の未獲得問題。
自意識が排除されたからこそ「自由と高慢」を独占してる〈少女〉獲得願望に彩られた〈男〉意識が、今むしろ拡大してると考える高原英理は、産む性である〈母〉の対極にある〈少年〉に価値あるものを見いだすのは、「悪しき〈母〉」というのを意識してる者でないと無理であると、『無垢の力―「少年」表象文学論』で述べる。本田が問題とする「恋愛資本主義」とは、高原のいう「自由と高慢の独占」とほぼ同一の志向であろう。他者の原型としての母=他性=〈女〉と自己の関係方法論としての「(母子)恋愛」ということがもっとも核心となれば、このハナシは「恋愛資本主義」も「バブル」もまったく関係ない、それは典型的な事後的後づけ論にすぎない。*1
著者の考える「萌える男」とは、「(恋愛)資本主義」を否定するどころか、90年代に流行った「トラウマと癒し」を利用したアタシさがしの自己実現を絶対唯一の正統としたい者のことか。「自由と高慢の独占」という欲望そのものを手つかずで温存する為に、いかなる現象をもトライブして利用しようというハナシだからだ。なのに、「トラウマと癒し」部分が拡大してその罠にハマった。そもそも欲望行為(自己承認欲求)と自他関係行為は別視点の行為なのだが、自己の〈女〉という記号で現される欲望成就のカタチを、「恋愛」という絶対神聖行為論に読み替えて唯一の自己正統化手段にしてしまったことが、コジレる原因である。ま、しかしその「トラウマと癒し」つー物語、個人消費を主眼とした後期資本主義的な支配&抑圧論なんだけど、なんでソコにはかくもこんなにウブなんであろう????

*1:手塚治虫『ブッタ』を引いて「萌えとは自己救済」とした最終項目で、「他者に救いを求めるよりも、自分で自分を救うという行為のほうが、よほど男らしい、というよりも、潔いよいのではないだろうか」「萌える男とは自分自身の内側に「神」を発見する能力を持った人間」という価値観が表現されている。で、あるならば、これは近代が推し進めてきた「〈男〉という課題」への強化(家父長文化)そのものであろう。

フレームワークの欲望

そんな大フロシキを掲げてまでも正論を寄せ集めてこないと、とにかくの自己確立=母親バナレ出来ないって、、、それは確かに大変だー。こゆワキ固めしないと、本題にもせまれなかったということか。しかし、そんなに親=他者存在を、強大にしてしまうその脆弱で不安定な意識=自信のなさは、一体なんなんだろう????他も含めてこの手合いのハナシでは、どうしてソコの点は、いつもいつも回避されるのであろうか。てゆーか、むしろソコを見なかったコト、なかったコトと全身全力で回避する為に「議論」を使って、そのアクロバットを、「思想」と結び付ける営みが、建設的で明るい未来を保証するというのであろうか?id:hizzz:20050629#p3

前回とりあげたプロスペクト理論id:hizzz:20051205#p2で「萌える男」を見るならば、利益よりも損失を重視する「損失回避傾向」意思決定を重ねており、それを一気にひっくり返そうとして自己正統化のメタ拡大解釈をもってきて全てを保全しようとすると、人生でのうまくいかない感は「トラウマと癒し」な小さな物語か、宗教&イデオロギーという大きい物語で購うという方法が、結局、為にする論議の循環に陥るのは、何故か?*1

したから性別関係なくハタから「モテVS非モテ」について多視点の傍証をいくら重ねても、相互関係より絶対秩序(立ち位置)確保が主眼なので、齟齬はつきない。しかし、その齟齬こそが「(愛されたいのに)愛されないアタシ」という喪失した存在=トラウマ物語を継続する唯一の自己正統化手段だとしたら、一種の反復脅迫である。ニーチェの超人思想に依るキリスト教批判は、まま超人思想そのものへの自己言及に他ならない。ひたすらな反発しか手立てがない、客観性放棄して意味より強度な全体主義は、ラクになるどころか、自分が見えてないダケの死屍累々への道=典型的ドクマティズムである。

しかし、よくよく考えてみれば、元々獲得してもないもの(=モテだの恋愛だの)を喪失したも回復するもない。過去も現在も近いも遠い将来も、とにもかくにも現前しない価値(理想)の贈与に対する、執着。この『萌える男』も、セックス・コンシャスに依るアニメ趣味者の生身他性への他者感覚と性的関係性という現象フレームだけ過剰拡大し、それが言論ゲーム上で煽り煽られ、結果バブリーにふくれあがったのに過ぎないのだが、いかんせん、しょぼいへろへろな生身の〈私〉は、脳内妄想で払えども払えども張り付いてくる。だから、そんな生身をさらけ出す必要のない脆弱な〈私〉を包み込んでおおいかくしてくれるより強力で完璧で絶対正統な安全理想説/物語はなんかないか…>id:hizzz:20050804#p6 この運動は反服脅迫である。そして人間はなによりも慣性の動物であるから、いつのまにかその方法論をすること事態が目的化して、ワレ想う、故、ワレ萌ゆる。思考するアタシという抽象概念的「退却」をもってして、都合の悪い自己実態をオミットして、全てを恣意的に着脱する能力を獲得する。非モテ論者が固執する「自己は外見よりも中身重視」説というのもこの退却ラインの一環なのであろう。萌えるか萌えないか、所有付与権をコントロールするアタシをもって自己確認とする。が、なによりもそれは閉じた方法論ゆえ、継続するには(贈与された)内的リサイクルな反芻だけではことたりず、外部注入が必要となる時点で、一方的に切り取った外部=他者の消費方法=独占要求で、外部=資本との主体覇権争いが起こる。

…だったら、足してもダメなら、引いてみな。どーせなら、コンフリクトを生むわ苦しくなるわの方向しかないこんなに息苦しい自己正統化欲望なんぞソコソコにして、むしろソレをうまく飼いならす方法で、脳内萌を使うことにしましょー。幻想の過去を取り戻すという「トラウマと癒し」からの解脱をこそを考えないか。
萌え(マスターベーション)を元のたあいもないセックス・コンシャスの一つとして自他の区別をつけて安全に楽しむ為なら、感性を拡大させまくるばかりの自己幻想をも見切る「自分失し」という方法論id:hizzz:20040612#p1は、その次の段階としてアイデンティティを分散消化して身軽になれる理性的なひとつの手かも、、、しれない。とにもかくにも、自分さがしは、程々に。

*1:それを「思索」と呼ぼうが「分析」と呼ぼうが「批評」と呼ぼうが「思想」と呼ぼうが「真理」と呼ぼうが、多角度的に実証検証することのない説は、暫定解のフィクション=幻想物語でしかないである。どんなフレームワークを創造したとて、そゆフレームを超えることは出来ない。