「文化系女子」という仕掛け

前回(といってもまたしても間があいてしまったが)id:hizzz:20060404の杉浦由美子『オタク女子研究 腐女子思想大系』本騒動で、やおい腐女子性自認な同人の方々が、記載されてる「モテ志向の文化系女子」というのに、多くがなんぢゃあそりゃあ???聞いたことない反応。それもその筈、この言葉『ユリイカ』という出荷5000部程度な文藝誌の特集号題名「文化系女子カタログ」であったからだ。

文化系女子カタログ」は、『オタクVSサブカル!』*1参加女性陣を面白がった郡編集長(当時)に「何か企画ない?」と呼びかけられた堀越さん*2が、この機会に他のところではあまり読めない原稿を頼みたい人々を思い、オタクもサブカルハイカルチャー(とされているもの)もすべてカバーできる幅を持つ語として「じゃあ文化系女子」、と言ってみたところからはじまった

野中モモ
http://d.hatena.ne.jp/Tigerlily/20060430#p2

しかし、杉浦本&著者バッシングの一因になる、非モテ志向の801/腐属性キャラのシャドウとして「モテ志向の文化系女子」として「文化系女子」の名称だけをピックアップして他を切り捨てたことは、後に尾をひくこととなる。世間的にはマイノリティな『ユリイカ』だが、サブカル寄りの特集と、最近のブログ寄りの企画等でネットライター&ユーザーを開拓したともいえ、『ユリイカ』vs他サブカル誌という要素も垣間見える。

「文化系女子」幻想

野中さんは、引用グログ文章の最後に「文化系/体育会系」というコンセプトは「基本的に、男は、体育会系と文化系に分かれてるんです」みうらじゅん発といわれている。そういえば近代からこっち「文学なんかオンナコドモのやることだ」つー学問ヒエラルキー、あったよね。

前からタレントやライター&作家をグラビア写真に多用していた『ダ・ビンチ』の「カワイイ文化系女子 としたい」は、永遠の文化系女子として水森亜土を取材。でー「したい」ってナニ(笑)? して、15項目の文化系女子チェックシート登場。
ところで、「“腐女子”も“文化系女子”も、30すぎて“女子”はねーだろ!」という燃料で高校時代の社会の支配的な思潮やブームによって30代の行動が規定されているhttp://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20060509/p2とする松谷創一郎さん、くだんの『ダ・ビンチ』に依ると「文化系女子はときどき死にたくなる。」そーな未映子さん曰くどうやらソレは年令ではなく「状態」だそーだ。

人は少女に「なる」のではなく、少女へ「行く」のであります。少女というのはひとつの「状態」であります。人は性別を関係なく年齢も関係なく、好きな時にその状態へ行くのです。

未映子 未映子の純粋悲性批判
http://www.mieko.jp/blog/2005/12/20061_50d5.html

たしか嶽本野ばら『下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん』でもそのようなことは言われてたっけ。とまれサブカル雑誌に出てきた現象ダケで纏められない「女」生態の変遷ってとこで、コメント欄をふまえた上での成果を松谷さんには期待しとこう。
杉浦サイドからの追加燃料は、『AERA』で「文科系女子vs.東池袋オタク女子」、20代モデル写真投入。「東池袋」という妙な限定は、先の騒動での学習効果なのかどうか(笑)。

「男性たちは文化系女子に『まだ見ぬ理想の愛娘』的な幻想があるんだと思う。現実に『CanCam』『JJ』に出てくるような華やかでセクシーな女の子が好き。でも自分の娘は知的で男性に媚びない風に育てたい、みたいなね」(雑誌ライターの杉江あこさん)男性の幻想に合わせて振舞ってあげること。それもモテる要素なのかもしれない。

杉浦由美子AERA 2006年5月15日号

ここで、クールな目線でカテゴライズの嘘について記述することで、先のバッシング騒動を沈静化できうるかとおもいきや、現実は甘くない。内実が複雑な故に語りづらかった文科系/オタク女子は、内実を知らなくともモテ/非モテ話題で語れるというメタ手段が「燃料」として確定してしまったからだ。

格付けしあう男女たち

この話題、20〜30代では流石に水森亜土は話題にもならなかったよーでスルー(苦笑)。話題は、モテ/非モテ(風俗)と「文化系」「女子」「好き/萌え」の意味を問うという、モテる文化系女子文化系女子自認の意味付与合戦で延々クネクネ。しかし、元が元(幻想)故、確たるモノ=正解はなし。だからその中でどんどん独自の解釈が派生し、それがトライブしてくしてく。うはうは。
ダ・ヴィンチのチェックシートだけで「文化系女子」語るの禁止な!」http://d.hatena.ne.jp/kanose/20060515と、ユリイカ本企画に関わったと称する加野瀬未友さんに依れば、その過程で「文化系女子好き」が「文化系女子萌え」といつのまにか変換された(少なくとも非モテ男性論者は誰も萌えといっていない)と提示。だが加野瀬さんも回答してる先の「文化系女子カタログ」では、男子アンケートとして「ファム・ファタル?女友達?サークル・クラッシャー? 僕たちの好きな文化女子!」と題名には、おもいきり多様な属性付与されている。
「ネット独自の解釈でギチギチ詰めたって、外に出したらいっこも通用しない」という栗原さんは、その中で、カミングアウト?されている。

このアンケートは男性が「僕たちの好きな文化系女子」について語るというものらしいから、ここで「文化系女子」は「萌え」の対象として措定されているのだろう。
道路で「萌え」と叫べないという事実はとりもなおさず、「文化系女子」の「文化系」的ファクターを認めてそれを評価できる自分が好きというナルシズムは抑圧されるからにほかならない。「文化系女子」の「文化系」のところに萌えると称する男は、彼女の「内面」を尊重しているよおうで。じつは自分が大好きなだけなのだ。そんな男にすり寄られて「文化系女子」のみなさんはうれしいですか?

栗原裕一郎ファム・ファタル?女友達?サークル・クラッシャー? 僕たちの好きな文化女子!」
『ユリイカ 文化系女子カタログ』

…うれしい人もいるでしょうね。モテ=自己承認ということがプライオリティならば。だからこそ、モテ/非モテというプライオリティにない生産型真性オタクとは、ハナシ噛み合ないことおびただしい。いや、しかし、「嘘を嘘と…」というスキルは、ここでは一体ドコいってしまったんだろうか?まじベタとみせかけて、実はクネクネしたいことに目的があるのならば、いわずもがなではあるけれど…。そういうネットならではな粘着的コミュニケートの仕方って、結構呼応に疲れるから、あとは体力勝負なんだろうな。でも、疲れても「変わり」はいくらでも供給あるし。ゲイの「2丁目に捨てるものはなし」という名言と同じく「ネットに捨てるものはなし」ってことで。。。

セクシュアルライツのデリカシー

オタク的(作品)生産・消費で存在が膨らみ、隔離し/された中で「テーマパーク権力」(環境管理型権力@東浩紀)としてまわりだす虚構世界(ポストモダン)と実社会との乖離を、その虚構世界は決して現実とは敵対も超越もしない「ごっこ遊び」として、本田透をフォロー?しつつアーレント型「公共性」=お約束をつかって着地させようとした説がある。

1つの同じキャラクターをめぐって、たくさんの鑑賞者の思いや妄想が交錯するその中で、人々の想像によって構築されたにすぎない、実在しない虚構のキャラクターがにもかかわらずどの特定の個人の思惑にも欲望にも左右されない、見かけ上の自立性を、そして見かけ上の不透明性、深み、屈折、わかりにくさを獲得する可能性はないでしょういか?そのとき、そのキャラクターをめぐるファンたちの共同性とは、いったいどのようなものとなるのでしょうか?おそらくは、幸か不幸か「脳内恋愛」に始終していられる局面は終わりを告げ、思いがけない出会いの幸福やストレスに開かれた「公共性」のようなものが育ちはじめると思われます。

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

「脳内」セックスコンシャス趣味のオタクを話題にしながら、男女を分けて考えるというのが時代の不文律な「お約束」というものであろうか。なんかドコかバランスがおかしい気がするんだけど。稲葉本では、脳内恋愛構想を擁護しつつも「オタクが「恋愛資本主義に傷ついた男」だけで尽くされるはずはありません。「やおい」「腐女子」はとうなるのでしょう?」という一文をもってのみ、やおい腐女子属性に触れているが、それがどーなってるかは記述されない。
その「公共性」を当初からハゲしく意識し「掟」としてる実践者が、やおい腐女子性自認な同人なんではないかと考える。

腐女子自身が自分の趣味を、周囲から顔を顰められる類のキワモノ趣味であると理解しているからです。 「こんな妄想を、純粋なファン、ましてや作者、本人に知られたらどれだけ嫌な思いをするだろう…ごめんね、801にしてごめんね。」

萌えプレ 隠れ腐女子が増えてゆく
http://blog.livedoor.jp/moepre/archives/50082125.html

稲葉本は、貴戸理恵『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』を例にとりそこでの「不登校」をサバルタンとし、リアリティの最深部は当事者自身で対象化して語れる時は、当事者でなくなった時という語りの不可能性について、以下のように述べる。

もって回った言い方ですが「少なくとも互いに『互いにわかり合えない』ということはわかり合えていなければ、そもそも『わかり合えた』とか『わかり合えない』とか言うこと自体に意味がない」ということです。サバルタンサバルタンとして現れるためには、そもそもの「語りえなさ」がそれとして認められ、その限りではーつまりそれは「語りえない」ということは理解されなければならない。

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

オタク女性の隠す部分というのが、いつも問題視されているのであるが、それではオタク男性はあますところなく語られてるといえるのであろうか?データベースとしての萌えカタログがどんどこ増えていこうとも、その「脳内」の影にかくれてみないようにされている、サバルタンとしての男オタクのセックス・コンシャスについて、手つかずな部分は実に多い。

フェミとの齟齬

「風俗としてのオタ女」ネタは止まらない。それはなにも男性購買層雑誌だけではない。女性ターゲットのコスメ雑誌『VoCE』の執事喫茶の隠し取り&その顧客に対する侮蔑記事http://www.geocities.jp/voce_peep/、さらなる「燃料」にまみれる、やおい腐女子。最初にカキコしたとおり、この一連、どー見てもジェンダー問題そのもの、女学生〜リブ〜フェミ〜クィアな変遷をすごい勢いでなぞってるレスだなーと見てた。昔ワタクシもカキコしたが、ジェンダーネタの総本山フェミニズムと、やおい腐女子性自認な同人(生産型真性オタク)と、「〈モテ〉のための〈ツール〉」*1としてオタク(自己承認系サブカルライトオタク)とでは、いまいちソリが悪い。それはスタイルとアイテンティティの関係でドコに重きをおくかの違い、これにつきるのではないか。

好奇心の虜になった女に女と呼ばれる必要性がないんすよ。名乗っちゃ駄目とは言わないけど、邪魔になるだけだから捨てるね、私は。

rbyawa あ、そーかそーか。>文化系女子
http://d.hatena.ne.jp/rbyawa/20060518/1147926199

フェミニストの実態はさておきありがちな「女たちの連帯」とサブカル「モテ/非モテ」では、正反対な主張をまとっていても社会/世間をおしつけるというスタイルが同じであるから生産型真性オタクはムッとする。サブカルはフェミの重たいアイデンティティも生産型真性オタクの矜持ぶりも、おしゃれでスタイリッシュに思えない。「アンタの自明とする「女」とは、アタシは違うんだけど」ということだろう。せめてココロの中ダケでも隷属しないこと、それを矜持としたりスタイルとした者*2にとってはウザいことこのうえないであろう。無論、そうしたココロと世間と社会に引き裂かれ続ける〈個〉の分離不安ということを痛切に実感している筈のフェミニズムなんだけど、アイデンティティとライフスタイル(と趣味)とそこに連なる世間/社会、そこで立ちすくんで学問権威内に籠って現実から遠のくフェミな人が多いように見受けられるのは、とても残念。


※補足
コメント頂いた(rbyawaさん色々ありがとう)中で、どーしてフェミとの関係を取りざたされなければならないのか?っていうこと自体に対する疑問があるのかと思うので、補足。
id:hizzz:20040109で書いてるとおり、そもそもサブ・カルチャーというのは当時の体制文化(西洋文明)へのカウンター・カルチャー=リベラル思想であり、DIYはそれをうけてラヴ&ピースに自活しようというフラワー・ムーブメントの実践から来ている。やおいが生まれるベースとなった70年代少女マンガは、学生運動のカウンターとしてのリブの影響を多大に受けている。今でも読まれている花の24年組とは、全共闘世代でもある。その背景をヌカしては作品は成立しない。>id:hizzz:20040220 連合赤軍永田洋子が獄中で少女マンガ風味な乙女ちっくイラストを好んで書いていたというのは有名である。このように、やおいを含む少女マンガに傾倒したおたく第一世代は、性別関係なくリブ&フェミ(リベラル)への親和性はとても強かったのである。

*1:この場合の〈モテ〉とは、異性モテということではなく広く「関係性の連帯」を至上とすること。

*2:ピュアや傷付いたアタシなメンヘル系を含む