スノッブ化したオタク

その内容はともかく、自分の中身を理解されることが一番大事ということは、「趣味は俺」ってことにもなるんだが、そもそも、そゆアイデンティファイをしつつ、モテ非モテという三次元他者異者の目を気にしてるのは、果して二次元萌えが全てといいはる「オタク」たりえるのか?という根本的な疑惑がある。「自分」とか「異性」にはまったく興味も関心もしめさず、ひたすら「好きな○○と同化したい人たち」(id:hizzz:20031120#p1)がオタクと命名されたのであり、そゆ青春特有の主体(自己承認)問題をスルーしまくるからこそ「キモい」といわれてたのではないだろうか。だから元祖オタク(第一世代)にはサブカルスノッブカルチャー)認知はあれど、自分の非関心領域=世間に対しての関心も敵対心もなかったのである。当然「モテ非モテ」価値観が自己プライオリティの上位にくることもない。が、しかし、オタクも第三世代まで裾野がひろがってくると、労せずとも関心領域に簡単にハマれるオタクの場は開拓されジャンル化して拡がっているし、オタク有名文化人やオタクキャラの登場で世間のオタク認知度も上がり、サブカル市場の表に出始めたライトなオタクが急増したのではないか。だからこそ、かっこつけで浅い連中なんかくだらないvsダサいあいつらと一緒にして欲しくない「オタクvsサブカル」的図式が90年代からいわれはじめる。
ま、ハイカルチャーがタコ壺スノッブ化してサブカルチャーサブカルとしてメインとなる過程で、従来サブカルオタクはライト化してオタク度が下がりメジャーとなり、サブカルスノッブと僅差になっていったということは、アニメなどを共有すると同時に、「「○○に着目した<カリスマな>オレ」が好きな人たち」(id:hizzz:20031120#p5)気分はスノッブ優越感をも自意識として共有しはじめたのではないか。そして後に残された明確な差別化としては、主体の確立問題というベタな青春。それが「モテ非モテ」というお題で宿題状態となったのではないだろうか。
「趣味は俺」を意識化したからこそキモ/ダサをひきずり、無粋な他者性まなざしを払拭して元の「好きな○○と同化する」楽園を構築したいオタクサイドとしては、その三次元他者異者を頑強にねじ伏せ排除することで「俺」の輪郭を見ない(=見るな)という未分化自己形成方法の『電波男』論=オタク原点回帰でバリアをはる。それは逆スノップそのものの論理(id:hizzz:20031120#p6)で、そんなに目新しいものではない。が、「俺」自意識問題は、オタク宣言集団の中では霧散してるように見えても、外から見ればそれは集団強化されてるのすぎない。