ホロコースト生還者たちの戦後

かろうじて生き延びて、収容所から生還した多くのロマは、無国籍者とされた。やっとこさ収容所以前の土地にたどりついても、もともと厄介視されていた村落は、物理的にも破壊されており、また生き残った同族もわずかであるので、昔ながらの大家族集団による文化の継承も営めない、文字通り民族的破壊状態であった。相も変わらぬ「ジプシー差別」がまかり通るそんな中で、ロマの要求を支援するような民族国家もなければ、ロマ自身による自主的運動体も、皆無であった。

郷里に戻っても、多くの身内・親族や同胞たちはナチスによって殺されており、再会をはたすことができなかった。「自分だけが生き残った」という心痛とある種の「罪悪感」、それを生還できた強制収容所元被拘禁者の証言の端々から聞きとることができる。経済共同体でもあった大家族集団をロマ民族は伝統的に形成していたが、あまりにも多数の家族員がナチスのロマ絶滅政策の犠牲者になったため、その大家族を立て直すことはもはや不可能であった。また、伝統文化の主たる担い手であった老齢者たちの多くが強制収容所でその命を落としたことによって、伝統もいっしょに葬りさられた。運よく生き延びたとしても、ナチス統治下で体験した虐待と悲惨な生活によって、多くの帰還者はその民族としてのアイデンティティを奪われており、「根無し」になっていた。ロマ民族の伝統文化の継承は困難になっており、民族としての統合も破壊されていた。敗戦後のロマ社会はズタズタにされていたのである。

金子マーティン『「ジプシー」と呼ばれた人々―東ヨーロッパ・ロマ民族の過去と現在

しかしドイツで1971年「西ドイツ・スィンティ連盟」が結成され、それは「ドイツ・スィンティ・ロマ中央委員会」に発展して活動していく。1982年ロマが蒙ったナチス迫害が、紛れもない「民族抹殺」であったと、シュミット首相が公認するに至る。またオーストリアでは、1995年ロマを「少数民族」として、ヨーロッパで初めて認知した。