母性と育児神話

「少なくとも3歳までは母親の手元で育てなければ」というハナシがある。この「3歳児神話」は、1960年代初頭に池田内閣の母親による家庭教育重視「人づくり政策」の元、3歳児検診開始前後に発生し、(これまでは抱きグセがつき自立しなくなるから良くないとされてた)スキンシップの重要性を説いたその頃国内でもてはやされた米国「スポック博士の育児書」と、古来の「三つ子の魂百まで」のことわざが合体し、スキンシップのない子は知的発達が遅れると拡大解釈され、母親の手元で育たない子は性格がゆがみのちのち恐ろしいことがおきる、と広く長きに渡って流布したのである。さらに、数ヶ月分の給料をはたいて買うあこがれのTVから流れてきた、NHKの母親向幼児教育番組「三歳児」と、ミッチーブームなる現皇后の乳母を置かない子育て「皇室アルバム」放映の相乗効果で、神話現象に火がついたようだ。専業主婦が急増した時代、高度成長の始まりの頃に立てられた説だ。
でも「カー付イエ付ババァ抜き」な暮らしって、次々家電製品買込んで金を必要としたり(所得倍増計画)、旧来のヌカミソ臭を一蹴する文化的おハイソ手芸とかに勤しんだりして、マイホーム空間を強調すればする程、御近所の内/外の曖昧なゆるい交流が遮断され希薄になると同時に、家庭に残された「かぎっ子」とか表面化してきて、それ受けて「働く母親=わがまま、子供がかわいそう=愛情欠損児」と、どんどこ拡大解釈された。
各所のブーイングの末に厚生省はやっとこさ近年、正式に否定しましたが、母(姑)→娘(嫁)の伝承を経て、いまだ一部では、頑強に信仰されてる模様。
第78回人口問題審議会総会議事録
http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s9806/txt/s0626-1.txt
平成10年版厚生白書
http://www1.mhlw.go.jp/wp/98index.html

しかし、「いい母親」であらねばならぬという自他の束縛は、色々な側面をもつ人間の在り方を、「母親」以外の部分を無理やり押し込め、うっ積させてしまう結果となる。子育第一に自他の承認を求めたい趣向は、専業主婦家庭以外の母子への偏見と抑圧になっていった。最近のACブームも、「親が○○してくれなかった」的想いを昇華できないままの子育ての「より完璧な母性」に拍車をかけてる。確かに出産は昔も今も母体には生死にかかわる影響があるのは確かとしても、大体、産む性としての「母性」なんて、平均寿命87年の人生のわずか数年に過ぎないしねぇ。数人育てるを入れてもたかだか20数年だしなぁ、それに一生を凝縮しちゃっても、、、人生50年の大昔ならいざしらず、残りの歳月どうすんだ問題多発。
まあ、「人より貧しくヒモジイ想いはしたくない、させたくない」という「父性」と、「家&子供にどれほど人より手が掛けられるかが情熱」という「母性」の、時流に合致した両親のプライオリティは達成されて、3歳をすぎて成人後も、営々と子供にとって都合の「いい親」をマジ一生懸命やり続けた結果が、う〜ん、今の度を越えた親子密着依存現象とか少子化に行きついてたりしてるのは、必然かぁ。。。
だからといって、いま保守的な人々のいう「父性の復権」を家庭に持込んでも、給料さえ確実に家に入れとけば、「亭主元気で留守がいい」と放っとかれて今まで無責任に好き勝手してたのに、今度は、リストラに加えて責任重大な「いい父親」ストレス増すダケの反転なのは目に見えてるような気が。国や資本とやらの期待している社会鍛練としての場の「家庭」って、いまや機能不全もいいトコ、家族個々人の欲望の充足の為に外部に侵食され揺さぶられつづける欺瞞だもんなぁ。すんごい皮肉なネジレだけど。


現皇后の子育て方法は、旧来の乳母制度を廃止し、子供の自発性を重視した「ナルちゃん憲法」という方針を明確に打ちだし周囲に従わせるというもので、当時は「皇室革命」とまで言われた。
なぜ、「母性」をそんなにも重要視するのか?母親による家庭教育重視という理念は、それまで虐げられてきた「母親」の地位に、家族の中で子育てという実権を握った上でのハクうだつ(^^;大義名分となるものである。当時の若い女性にとっては、自分が中心となって新しい時代に見あった家庭をつくる、という、姑小姑アダコダがんじがらめの疲弊しきった家父長的しきたりを一掃する、まこと胸のすくような、喜ばしい夢のライフスタイルだった模様。
「もはや戦後ではない」時代の新しい女性の在り方を、それらに重ねて憧れた女性が多かったのではないだろうか。いつの時代も、自分がヤリタイ様に思通りしたい。それを後押しするがごとき理念が、振りまかれたなら、そりゃ飛び付くのは、しごく当然。
その確たる想いが強烈であればあるがゆえに、母性と育児神話というのは、子育てを自のプライオリティの上位に置いた人々の、世の中が承認したアイデンティティの再確認として、たえず再生され布教されるお手軽で有効なイデオロギーなのかも。
しかし実際は、(現皇后のセイではないが)理想どうりにコトは運ばないのは常であり、ひとつのライフスタイルを支える理念である筈のものが、無邪気に喧伝すればする程に、理想以外の環境や状況下にある人々への容赦ない偏見/断罪へと陥る。
母性と育児神話というのは、プロセス重視-姿勢の話である。だから、このプロセスを信仰してヨロシクない結果がでた場合「いつもワタシは一生懸命だった」ということが当の女性から、再三語られるんだけど。まあ、権限は持っても結果責任は誰でも負いたかぁないのは本音だけど。「姿勢さえ、自分が一生懸命なら良いのか?」というのがACから、現に今、つきつけられてる親世代でありもする。
まあ育児って、そのプロセスの中でだんだん親側の失敗が多くなるが故に、これぢゃイカンちうことで子供が自分で生きる工夫しだして自立出来るっていうニガイニガイ側面が、多々あるんで。もともと「親はなくとも子は育つ」んだしさ〜。
「ワタシの気持ちを(親は/子は)解ってくれない」と、親子共々、根底にあるそうした母性と育児神話からの呪いがそれらを増長させてしまって、生真面目にどこまでも自分の気持ちを解ってもらおうとすればする程に、「(親は/子は)かくあるべき」という信念に基づいた自分達親子の確実な役割遂行をとことん要求しあって、お互いに傷つけあう状態から逃れられないタダナラヌ深刻状態が多発してるのは、事実。
かくも母性と育児神話に苦しめられてきた親子が数多くいる、ということを踏まえて、この理念のもたらした功罪がどうだったのかは、じっくり考察されなければならないだろう。それはただちに前世代の全否定でないが、負が有るならそれをワザワザ引き継ぐことないのだし。
そんなこんなが背景にあるから「活動専業主婦」id:hizzz:20030602#p2とかがカリカリ炸裂せざるを得ないんだよな。そしてそれを今まで安易に頭数として便利に利用してきた色んな共同体は、かかげるスローガンの保革の関係なしに、自ら(の既得権益)を守るために、総保守化せざるを得ない、と。ヤレヤレ。。。