共生の為のスキル

最近次々起こる心の闇的な「異常」事件の度に、良心的識者/活動家から「多様性」という文言が繰り出される。「多様性」という言葉は美しい。色んなひと、色んなバリエーションがあったほうが、生きやすい、暮らしやすい、そんな社会を…。うん、もうそれは多いに賛同する。が、しかし、「色んなひと、色んなバリエーション」に耐えうるスキル構築をおいてけぼりにして、「多様性」を語ってお終いになってる場合が多い。「多様性」の次ぎに必須の個別具体的対応法といったトコにハナシがちいとも進まない。それは何故かといえば、「多様性」をマスな感覚=金科玉条=単一であるかのごとく扱うからである。だから、「多様性」という言葉で、実際の多様性である為のスキルはいつも霧散してしまう。
問題にかかる加害者側(多様性)も被害者側(取締)も傍観者側(取締)も、どうもみないってる単語は違えども、様は金科玉条=単一ということに収斂させることに全ての人力をそそいでいるようにしか見えないのである。そして残念ながら具体性のある方法論といえば取締の強化&拘束期間の延長化といったことの是非だけがいつも論点になり、「多様性」の具体的方法論は議題にさえならない。
特に精神疾患がその原因となるならば、なによりもその疾患そのものと治療見通しがまずもってよく解ってないと、その後のケアは不可能であろう。そして、多くのひとはそういう躁的疾患の対応方法が解らない。解らないまま、「多様性」=人権だの保護=拘束だのといった非現実的な抽象論に揺れ、隣人のちょー元気で(その多くは)無自覚な躁的疾患者応対に無力な自分に疲れ果てる。そんな疾患者をかかえる近親者/関係者は一体どうしたらいいのだろう?
それに対する答えはいつも出てこない。被害者/傍観者含めて出てくるのは、「近親者/関係者はなんとかしろ」という責任の押付けだけである。だから、「市中引き回し」なんて言葉がいまでも平然と語られ支持を受ける。
精神疾患責任能力を問えないとなると、ここに到って一番の「弱者」は近親者/関係者となる。そして、あいかわらず、精神疾患を抱える近親者/関係者への救いはなにもない。とりあえず隔離、とりあえず様子見(=社会の多様性)とかいって、とりあえずの自分たちの言説の現状維持に汲々とする。それは、過剰負担で苦悩する近親者/関係者への冒涜であると共に、精神疾患への無知/偏見でもある。
鬱病やさまざまなアディクションに関しては、最近ではタレント等でも告白されるようになってきたが、どうしても患者本人の苦悩が中心で、どうしても周囲の応対は「そのままに受け入れる」的などちらかといえば患者本位な視線に貫かれている場合が多い。
また「拘束反対」を性急に叫ぶ疾患当事者達も、昔の精神病院の鉄格子のおどろおどろしい悪イメージをむしろ世間に増幅してはいやしないか?躁的疾患にとっては拘束はむしろ外的妄想をたちきり、症状をおちつかせることにつながるという面があまりにもどこかにいってしまっている。精神病以外の疾患でも「安静」や「面会謝絶」という措置がとられるのと同じだったりする。
そうした疾患に相対した過剰負担と絶望の近親関係者へのケアの在り方といったことに言及できて初めて、精神疾患を受け入れる「多様性」が成り立つものであるのに、近親者/関係者の責務ばかりを強調して孤立無縁に追い込むことは、とどのつまり素人の近親者/関係者に手の負えない者はすべて「隔離」しとけばいいという単一思考に収斂するし、「隔離」してどーするというその先の生をほったらかしにするいきあたりばったりのハナシだ。
…しかし、何故か治療/矯正/刑罰のアカウンタビリティって決して問われることがないんだよな。思考停止の踏み絵はここにもあるな〜