降ろさんぞゲ〜ム

「無限応答責任」なる責任問題が独り歩きしてる感が強い、この話題。「降りる自由」という問題の立て方矛盾についてカキコしたその反応が、面白い。目的解消をひたすらめざすビジネスライクぢゃアカン、むしろその背景コソが大事とおっしゃる面々。クリアカット討論はid:Ririkaさんの独壇場なので、ヨタっきゃ言えない地べたパンピーとしてぬらぬらともうすこしコンビニ前で出入りする方々を眺めてウンコ座りしつつカキコ。(この冬空にいったいナニをしておるのか…)


●「無限応答責任」という自己判断
id:hizzz:20040223でカキコした通り、最初からこの議論に萎えていたりもするんだけど、そーいいつつあちこちにお邪魔してカキコしたりもしている「ヨタ者」的立場である、ワタクシ。そういうDQN文脈なのには「無限応答責任」は感じる必要ナシ!って裁断してるのが普通だし、現にワタクシのヨタに直接言及応答されてる方は殆どいなかったりする。つまり、最初から「降ろさんぞゲ〜ム」には上げてもらえてナイってこと。
「徴兵制を視野にいれた戦争問題をやり取りする国家間」には「無限応答責任」を感じて、「降りるアタシの自己実現しても無意味ぢゃん」個人には「無限応答責任」を感じないという判断、ハテ、それは、いったいドコの誰が判断してるのだ???
注:いっとくが、だからといってワタクシのヨタに必ず応答責任果さねばならぬといっているのではないっす。それは、読み手の自己判断というワタクシのあずかり知れぬ外部の現象にすぎないことでし。


●責任の所在
東説では「無限応答責任」は自己に帰属する判断ではなく、否応もなく押付けられるものだという。その総体が「ネオリベラリズム」=新保守主義というものだと帰結されてる。
ネオリベのせい」に議論帰結するというネオリベ撲滅教は、社会派的言説には必ずお目見えしてくるイズムである。が、このイズムの特徴として、いつも否定の総本山として使用される模様。が、ワタクシ、この「ネオリベ」とやらを自称イズムしている人についぞ出会わないんだけど。不思議。総本山=責任の所在がそもそも解らなければ、「それがネオリベだ!」といわれても「無限応答責任」の回避なんかできっこないしー。誰か、ネオリベ総本山/教祖をどうか、具体的にご教授下され。


●いでよネオリベ
てなコトは、ワタクシこれまで結構、ネオリベ撲滅教布教な方々にリアルでもお聞きしたりしてるんだけど、「降りる自由」行使されてるのか皆様おしなべてクリアな応答が御座居ません。
はて、なんで応答がナイのか。ワタクシとしてはそれを考えざるをえない。大抵応答がナイのは、往々にして問題の立て方が悪いということに起因する。応えられない(応えたくないも含む)質問をされても応えられないのである。この場合「ネオリベ総本山/教祖」とは誰か」という問いである。これがどーもイカンらしい。問うことが。で、大抵その質問をすると、例外なく怒りだしたりして回避される。なにがネオリベなのかについては、メチャンコ熱心に事細かにお話ししてくれるのに、はて?


●問題提起の所在
何故、「ネオリベ」発祥元を聞くこと自体がイカンのか。
だから「徴兵制を視野にいれた戦争問題をやり取りする国家間」=「ネオリベ」といってるぢゃんと、ムキになる方も多分におられる。しかしワタクシ、国家が「ネオリベ」というイズムを言ったという言質がとれないっす。あくまで、「それはネオリベだ!」とそう認定する側の脳内にしか「ネオリベ」全体図は存在しない。ワタクシが無知なのではなく、そもそも「アタシこそ元祖/本家/教祖ネオリベ!」と、そのネオリベ撲滅教義を引受ける外部ってそもそも存在しないからなのではないか、と考えざるをえない。
ネオリベ撲滅教義を引受ける、それはすなわち「無限応答責任」になる主体ってことだ。で、それを引受け呼応する者が具体的に誰もいないとなると、問題提起者にその問いは留まり続ける。それは「ネオリベ」はネオリベ問題提起説の内部にしかその根拠がないということにもどされる。


●社会マトリックス
ある時期、社会派な皆様は「社会のガン、それはネオリベ」というマトリクスをコンセンサスとした。以降、そのコンセンサスに乗っ取って、「あれはネオリベ」「これもネオリベ」という認定論を量産なさり、そのマトリクス基準を満たしてるか否かのゼロサムゲ〜ムに突入していった。
しかし、そう「ネオリベ」認定された側は、そんな社会マトリックスは当然受付けない。何故か。「ネオリベ」(とそれに付随する根源悪という解釈)は、社会派という特殊村のコンセンサスであって、ネオリベとされた社会のコンセンサスでないからである。


●カテゴライズの罠
そんな特殊なコンセンサスで、「ネオリベ!」と外部をカテゴライズしても、された側は「はぁ?」って思うしかない。社会派内観にしかその全貌が存在しないカテゴリーに分別されたとて、その外部にうかがいしれない社会派内観には、そもそも「有限応答責任」「無限応答責任」も出来ようがない。ここでも、問題の立て方が悪いゆえに応答不能になる事態が起きる。
そうすると、いつになってもネオリベ撲滅教の社会マトリックスは、完成しない。そうすると「お前は解ってない」「○○を読め」みたいに命令したりなんかして…。解るように言えない自己の不明さっていうのはどうなんだろう?呼応しないことを折り込んで自説を完成させる為に、ますますあちこちの「ネオリベ!」認定にセイをだしマトリクス強化につとめる。こうして他者/外部を喪失する。


●シニック
「自己責任を迫ってくるのは「ネオリベ」でありそんなものを自分が背負う必要はない」とする大前提がこうしたマトリクスにはある。あとは、そうしたら、いかに責任を負わないで済むかという議論にコトは進む。そうすると「…である」ということは中々切り出せなくなる。それは立証責任をともなうからだ。そうすると、id:hizzz:20031023にカキコしたとおり、片っ端から「…でない」と裁定権握ることでプレゼンスしとく、無傷で世界を把握してる全能感を保つ連中の“負けないための”処世術に言説はなる。しかし、それは否定ゆえ弱い。生産的ではないから、議論が進まない。むしろ議論を止める。その後退の極みでの起死回生策が「降りる自由」の発見?ということか。


●目的のすりかえ
元々、社会派って「宜しくない社会を少しでもなんとかすることを考える」真摯な皆様と、ワタクシは解釈。むろんそゆ問題に日夜真摯に責任負って取組み、成果をあげているところもあるであろう。しかしそうである(ハズの)トコロに突然「降りる自由」を自己正義として立てなければならないという不思議。
「国家」でも「ネオリベ」でも「資本主義」でも、そういう「宜しくない」をなんとかする為の方法論のひとつにしかすぎないものが、いつのまにか「宜しくない」の排除がメインとなってしまって、そゆこと自体に歪みが入ったのではないか。「社会のガン」という論拠なハズが、その方法論自体をメインとしてしまった故の「主体」不明に陥っているのではないか。方法論自体に主体はナイ。あるのは、いつもそういう方法論を裁可し能動する主体だけである。そうなると、方法論を主体としてしまった自己ということにいきつく。


●PC(ポリティカル・コレクト
そこで、どうしてそういう自己であるか、いやそういう問題の立て方は正であるとした主体責任を、PCというスタンスをもって果そうとする。果そうとするが、一方でそれは自己を賭けた正負というゼロサムゲ〜ムの全面に上がることと同義になる。そこまで自己を託して論を上げたとしても、元々抽象的名称にすぎない「国家」「ネオリベ」「資本主義」が、応える訳がナイ。
実際の国家にしても、論者がいかなる御高尚なPCを立てようとも、ワタクシがいかなるヨタを飛ばそうとも関係ナイとシカトするのと同等だったりする。ただ、予めコンセンサスがある社会派村には、その孤高のPC態度をもってして全面容認されるかDQNオミソになるが違いだけなもんで。
さて、そんなPCを受ける側とて、いつも重視されるのが「いかにしてこれを訴える資格があるか」という姿勢=ふるまいである。そこでジャッジがおこなわれる。そのジャッジをへないと、いかなる議論にも上げてもらえない。そうして議論はいつになっても始まらない。本論が始まらないかわりにナニが始まってるのかというと、PCなアタシの相互承認という自己実現運動である。


●他者ナキ世界
「運動論」というハナシもid:gyodaiktさん周辺で盛り上がっていたようだが、元々問題解消を目刺して行動を起こすという目的をもった筈のものが、運動を煽る側(学者/政治家)も煽られる側(活動家)も、こうしたPCという自己動機が上位にきて、問題解消を目指すのではなく、問題提起を目指すというカタチに緩まり、益々PC色を強めた結果、問題解消から遠のくカタチになってるのではないだろうか。
なにしろ自己スタンス最重視だから、「国民の代表の多数決がフィクションだと言うなら、いつ上がったんでしょうか?というほうが有効」と自己よりも運動スジを立てることは言えない。そうなった時点で目的は完全に「自己をいかに立てて承認もらうか」にすり替わる。ポイントは、その承認があくまでも内部承認であることだ。外部は「降りたければ降りれば」なので、そこでナニをどう言立てようとも、撤退=敗北となるからだ。それはクヤシー。その結果、「降りる」ということに対しても、PCを言立て承認を受けなければ降りられないという不自由に。そんな自分から埋没するというマトリクスをこしらえるのは、可能性よりも不可能性に固執するゼロサムゲ〜ムなその視座のナサって加減はどーかと。。。


●PCインフレ
議論や運動がそのように現実解消を目指す有効打でないとするなら、現実解消を目的とする者はそりゃもう降りるしかない。それでもその場にいようとするなら、そこになんらかの意義を自分で見付けるしかない。で、素直に考えれば、可能性というもののはずなんだけど、どうも昨今ソコにはいかないみたいだ。多分「可能性」という文言に含まれる進歩史観が、左翼/社会派陣営ではどにーもこーにもイケナイみたいである。特に「マルチチュード」とかいってる割に、「ネオリベ」撲滅内の多様性以外を認めんとするかのようなダブルスタンダードがあるそのスタンスは、よーわからん。
ま、そんな政治=立ち位置ハナシはどうも運動内部でもしっくり来ていないようで、結局、運動に参画する動機がようわからんひとが多い。人間「解放」を目指したものの人間「開放」であふれてしまい、その人間「介抱」にてんやわんやとか。。。
取りあえず、政治=立ち位置ハナシをどっかにおいたPCなアタシという私文学=承認されたい自分が、表現の場として運動を消費するってことが、運動の共同幻想を支えていたりもする不幸って、ちゃんと語られないといけない。そして、私文学を個人で出来ず他者ナキ同調集団内でやろうとすることの不毛についても。しかし、肝心の運動を煽る側は、建前論に篭って出てこない問題なんかナンもないとするPCっぷり。


●文学運動
ネオリベ撲滅」でも「プロ市民撲滅」でもなにか御旗があって闘ってるひとは傷つくことは絶対ナイ。なにがあっても敵のセイだから。しかしそれは、芸術とは程遠い行為である。
文学でも美術でも音楽でもなんでもそうだろうが、芸術とは、回りとの差異に敏感であってはじめて衝動がおこり、その結果としてそういう自己の部分を作品として〈個〉を立ち上げたものである。それは独我に篭るものではなく反対に、社会に向けて〈個〉を放つものである。先に他者ナキ同調集団内では不毛だとしたのは、このような理由からだ。そして数多の集団芸術運動が短命に終わるのも、そのような芸術そのものの成立ちの所以だからである。
無論、そんなことがキッパリ出来得るひとは多くはない。また社会に向けて〈個〉を放ってもシカトされ承認されなのが殆どである。しかし見付けた自分のそうした〈個〉をPCしたいという場に運動がなってもいいじゃないか。という論もあろう。だが、そういう〈個〉を表に上げておいた影でイズム教に有利なように政治利用するというダブルスタンダードが、政治に消費される文化という危機を強める。
id:hizzz:20040123#p2で危惧してるのは、そうした動員をたのみとした政治側と、傷つかない為のPC文学との退却合体それこそが、ワタクシには保守そのもの(=ネオネオリベラリズム?)に見えてしまったりもするんだけどなー。


●言語プロレス
そうした思惑がこの「降ろさんぞゲ〜ム」を取り巻いているのは明白な筈なのに、いったもん勝ちとばかりに「降りる自由」とノドカに?言われても、その態度保留な曖昧に見るアタシさがし状態に、なんだかーってぐたぐたにダレるんだな、もう。
でー、id:flapjackさんトコで、『〈民主〉と〈愛国〉』ISBN:4788508192んだけど、降りる自由にないと思うのは、(1960年以降に生まれたとみうけられる)今ここの自分達なのに、それを1960年以前の歴史文脈のセイにするかが解らない。だってそういう文脈をファロワーするとした自己決定があるだけだし。
その内容、歴史的(左翼)文脈をふまえて沖縄&在日(コリア)に夢想するっていうカルスタ的帰結、敬意を表すれども少なくとも沖縄でも在日(コリア)でもない多数な立場なワタクシ(しいて言えば在日日本人?)という「今ここの現状」はあいも変わらずオミソぢゃん!、って主体の不在による着地することのない議論展開になるのでしたぁ。

可能世界
http://diary.hatena.ne.jp/dice-x/20040227#p1
公私のボーダーライン
http://hizzz.hp.infoseek.co.jp/atrandom/h_rog/014_txt.html