作られるDQN

風野さん(読冊日記)は、糸井重里をひいて、「ネット理念派の大人」と「はど的コミュニケーション形態の子供」は優劣がないと、この一連のぱど厨問題id:hizzz:20040619を纏められてる。ワタクシも等価値であると想う。
目標とそれを達成するために使用する手段が、ぱど的子供と、非難する大人とでは違うということだけである。「ネット理念」そのものは先進的ユビキタス?(目標:ネットリテラシー)でそれにそったマナー(手段:コミュニケーション)をすべきなのに、その「素養」のない子供が、その理念を手近な手段としてしか捉えず(目標:コミュニケーション)原始的なふるまい(手段:ネットリテラシー)をしていると見た。そしてそれが、お互いの「逸脱」と解釈されたのではないか。
id:hizzz:20031225#p2でカキコしたように、ネットは「fj」というまことに狭い学術同質集団から、BBS(パソ通)→web→ケータイと裾野を拡大していく度にコンフリクトを起こし、異質を階層化して棲み分けを行ってきた。
今回、棲み分けのエリアを越えて、潜入レポするということがなければ、ぱどタウンも何事もなく盛り上がって盛り下がっていった、数多のネットシステムのひとつだったろう。
essaさん(圏外からのひとこと)は、『紛争の心理学―融合の炎のワーク』を引きあいに「役割ゲーム」の構図を指摘なされている。
上下左右遠近等恣意的序列二者関係or排除として、全てが関係性を持ち第三者不在となる「世間」に、そしてそこでDQNは作られ、その際に起きるコンフリクトで役割固定すれば、いじめ/バッシングへと容易に転化することにもなる。
ワタクシは、独裁者をプロデューサー(P)/テロリストをターゲッター(T)/仲介者をギャラリー(G)/それ以外をアウトサイダー(O)4タイプの役割に別けて考える。プロデューサー役割と他の相関関係を見てみると、プロデューサーは自己認識では、自己は役割を与える「命令指導者」である。プロデューサーから見たターゲッターはその命令指導を受け入れる「実行者」であるが、「被害」意識があるターゲッターにすればプロデューサーは「加害者」となる。プロデューサーの意見に賛同するギャラリーは自己意見を受入る「積極支援者」であるが、当のギャラリーにしてみるとちょっとした同調「参加」意識である。プロデューサーの「扇動」意図にのみこまれまいと役割から逃避するアウトサイダーは、しかしプロデューサーにとっては特に反論もないのだからと「暗黙支援者」として捉える。。。
一見、アウトサイダーは部外者のようであるが、当人がそうおもってても、他者からはそう見えず、他者にとってなんらかの役割を果している。視点をかえてみれば、すこしづつ役割の意味がお互いにズレてしまうことが、下記のようにあるのではないだろうか。


プロデューサー ターゲッター  ギャラリー  アウトサイダー
T視点 加害者 被害者 参加者 傍観者
O視点 扇動者 対象者 観 客 逃避者
P視点 命令指導者 命令実行者 積極支援者 暗黙支援者
G視点 学習指示者 強制学習者 同調学習者 学習回避者


このような各「立ち位置」の自他の認識のズレからくる齟齬が、中々関係性の中にいるとコンフリクト自体の認識が出来にくく、内側にある「世間」的なものはつねに温存され変化するのが難しいのではないかと考える。逆に、交換日記/メータイMLからネットといった風に丸ごと外の形態を変えるのは、以外と容易ではないであろうか。そしてそのことに拠って、中身も新しくなったかのような気分に一瞬ひたるが「マンネリ」化し旧弊が目立つようになると、また新しい表層がイノベーションとして開発されそこに乗り移る。…実は、そんなコトを大人は営々とネットでもやっているのではないだろうか。