テレビ時代=テレビ教育国家の黄昏

今年9月時点の普及世帯は約2350万世帯で、政府などが目標としていた2600万世帯に比べ250万世帯少ない。普及対象の全5000万世帯に対しては約47%にとどまる。景気悪化の影響で年末のテレビ商戦も期待薄となっており、政府や関連業界は普及に向けた体制や計画の見直しを迫られる可能性がある。
総務省が5月に公表した世帯普及率は43・7%だった。8月の北京五輪に向けたテレビ商戦をバネに、一気に50%超えを見込んでいたが、実際には3ポイント強増えただけだった。
ただ、目標達成には半年で500万世帯を超えるペースで普及世帯を増やす必要がある。完全移行が遅れれば、放送局はその間、現行のアナログ、地デジの両方式で放送しなければならず、地方局の中にはコスト負担で収益が大幅に悪化するところも出ると予想される。
当面のかきいれ時と期待される年末商戦だが、「ここへ来て消費はかなり冷え込んでいる」(大手家電メーカー)と厳しい見方が多い。普及の遅れを取り戻すことは容易ではなく、完全移行までの全世帯普及に「黄信号がともった」との声も出ている。

地デジ低調、現状で世帯普及率50%超ならず
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081201-00000015-yom-bus_all

はいはい。新聞・雑誌・TV・ラジオといった4大マスメディアの媒体ビジネスの凋落に歯止めがかからない。07年の数字では、総広告費約7.0191兆円内4大メディアの割合は50.86%(新聞13.48%、雑誌6.53%、TV28.47%、ラジオ2.38%) *1 *2。新しい媒体としてはネット8.55%、フリーペーパー&マガジン5.25%が成長してる。
古いメディアである本・雑誌は、バッシングであろうとネットがとりあげることで売れたりもする微妙な関係となってはいる。いわば、情報伝達の中間を一手に引き受けることで成り立っていた報道メディア=新聞・TVの機能はネットに、80年代以降の雑誌が担っていたサブカルトレンド情報はフリーペーパー&マガジンに置き換わりつつある*3。ま、したから米国が民主党政権になりますます旗色が悪くなった「つくる会」などの反動保守派にとって、この度の「田母神フィーバー」は、このうえない媒体なのである。いくら田母神発言を叩いても、パフォーマティヴに『WiLL』の売上増に貢献してしまうこととなる。したから陰謀論&創作史な皆様おおはしゃぎ*4。それが見えているから叩く方は、尚更かったるい。
竹内洋は活字的教養とテレビ的教養の比較から以下6つのテレビ属性を挙げている。

1.アクセシビリティ=テレビはスイッチひとつで容易に知識を獲得することができる“手軽さ”をもっていること。
2.非アクセシビリティ=テレビによる教養は、あらかじめ用意された内容を、あまり選択的な努力なしに受け取ることができること。
3.帰納的・経験的思考=テレビによる知識獲得過程は、具象的なものから出発して法則に到達するという方向をとる。
4.画一性=テレビが時間拘束的なメディアであることから、たくさんの人々に画一的な教養内容を与えるということ。
5.生活設計としての活用=テレビで放送されている卑近な事象やフィクショナルなドラマのなかから、“生き方”についての指針や助言を得ていること。
6.理解容易度=テレビでは、難しいことでも、かみくだいてわかりやすく教えてくれること。

竹内洋日本主義的教養の時代―大学批判の古層

さて、このしくみに乗っかっていた既成大権力機関は、なんであろう政府なのだ。政府にとってのマスメディアとはなにか?それは、「世論生成装置」なのである。その機能を持つ故、メディアは政治権力を持つ。田原総一郎がなにかといえば、ネットを持ちだすのもその意識からであろう。新興勢力への反動からくる田原の仕切り=民意生成は、仕切ろうとする程にネットには及ばない。朝生が深夜というネット稼働時間と並行して行われたものであり、反動保守派がさかんにこの番組を宣伝したこともあって、「田母神問題と自衛隊」視聴者アンケート結果は、いとも簡単に反動保守向きな世論形成を示した。さてこの「成果」に、田原は声なく、さんざん反論してきた姜尚中はニガ虫をかみつぶし、「視聴者の声」を支配出来た反動保守ネットな皆様はおお喜び。さんざん世論をあおってきたTVのしくみって、そんなものなのである。

閣僚経験のあるベテラン議員は、事態の深刻さについてこう述べます。「『自虐史観』などということをいう政治家が増えたし、国民の間にもそういう空気が広がっている。その中で、空自の長が公然と政治介入し、政治を批判した。一歩間違えればクーデターだ。海外活動を本来任務とする実力組織のトップがあのような歴史認識を示すのは、アジア諸国との関係から見ても重大だ。私自身も『左』のイデオロギーには厳しかったが、『右』には甘かった。これは反省している」
ただ、元防衛庁長官の一人は、不気味な“予言”をします。「米国の金融危機と経済混乱から、米国が世界の警察官としての役割を果たせなくなり、そのヘゲモニー(支配的影響力)が後退して、太平洋にも力の空白が生じてくる可能性がある。田母神氏の発言は更迭に値するが、それとは別にこの問題は考えておかねばならない」
安保問題を担当する民主党衆院議員も、「アメリカ一極支配秩序の崩壊」の現実を直視せよとして「いつまでも『アメリカ頼み』では、我が国の国民の生命も財産も守れない」と述べています。
軍事力による覇権の維持に固執する限り、政界の中からも田母神氏の主張に同調する流れが出る危険があることを示しています。

田母神問題“靖国派”が引き金 懸念する自民幹部も
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-30/2008113001_02_0.html

理性的対話による合意という市民的公共性を建前とする議会制民主主義のみが民主主義ではない。ヒトラー支持者には彼らなりの民主主義があったのである。ナチ党の街頭行進や集会、ラジオ聴取や国民投票は大衆に政治的参加の感覚を与えた。
何を決めたかよりも決定プロセスに参加したと感じる度合がこの民主主義にとっては決定的に重要であった。ワイマール体制(利益集団型民主主義)に対してヒトラーは国民革命(参加型民主主義)を提示したのである。つまり、ヒトラーは大衆に「黙れ」といったのではなく「叫べ」といったのである。

津金澤聡廣・佐藤卓己広報・広告・プロパガンダ (叢書 現代のメディアとジャーナリズム)

しかしそのメディア支配変動の危機に立つからこその、新聞・TVジャーナリズムに依るマッチ・ポンプの果てのネット叩きなのである。そして補助金を出して迄、地デジ普及にやっきになるのは、こうした「世論生成装置」という既得権益を守ろうとする為にほかならないのではあるが、いままでの「テレビの時代」は終わってくのである。

教育が国家の統治行為であるということは裏返して見れば、近代以降の国民は無知である自由、あるいは無知である権利を持ってはいないことを意味します。

山崎正和文明としての教育

戦前・戦後に「輿論」が「世論」化し、その輿論=個人意見と世論=世間の雰囲気の使い分けによって戦後史がどのように変化したか、戦時動員された与論すなわち「ヨロンとよまれる世論」をいかにして討議可能な興論に復員するかという問いに佐藤卓己輿論と世論―日本的民意の系譜学』は挑む。彼によると、本来個人が担う意見である輿論に、世論を流し込む無責任のトリックによって主体責任を曖昧化してきたと考察する。その輿論を復活させる為には「感情の言説化」が必要という。ネット上で直情的な発言応酬が圧倒的であればある程、反時代的な「広議輿論」と「不惑世論」は輝きを増すとし、「ネット輿論」と民意リテラシーに可能性を見出している。
しかしながら、今までの「テレビの時代」が終わっていくとするならば、必然的にいままでのマスメディアバランスの中で成立していた「ネット形態」もまた終わり、変化せざるを得ないのである。

*1:http://markezine.jp/article/detail/2749

*2:電通の今年の第2四半期決算報告に依ると、08年4月1日〜09年3月31日の業績予想は、経常利益△19.3%、純利益△30.5%、新聞△14.3%、雑誌△8.6%、ラジオ△7.1%、TV△3.1%と真っ赤っか。。。

*3:しかし、フリーペーパー&マガジンは購読者定着しないのが大半で、出ては消えてく戦国状態

*4:いっとくが、これはなにも皇国史観&右派&民族派にかぎったことではない。田岡俊次が妙にはしゃいでるのにみられるように、「軍隊」をめぐる権力陰謀には、右も左もおおいに惹きつけられているのである。西尾幹二水島総がいくら過激なことをいっても、彼らは所詮卓上ファンタジスト。だからこそ、田母神というリアル軍身体の出現で、自分たちの持つ暴力ファンタジーと実務制度リアルとの接合点だとばかりに、その発言価値がMaxに見積もられた。