ココロの植民地主義 ココロコロニアム(コココロ)

「『良い子』といわれて育った子供、大人になってなんになる」
http://hizzz.hp.infoseek.co.jp/d&f/13_txt.html

「良い子」は親の要求でそれが社会の掟としつけられる。母親の子供に対する根本欲求は「アタシになれ」と「アタシを守れ」の二点で、「アタシでないアタシになれ」ということだ。もうそこにすごく矛盾があり、要求する当人も確たるビジョンがあるわけではない。なので「アタシでないアタシ」として、男児には「女(=アタシ=母親)のような男」を、女児には「男のような女」を要求するが、それを有る程度果した「良い子」=アタシでないアタシは、「アタシであるアタシ」な母自身の存在を脅かす脅威となるから、今度は「アタシであるアタシを守れ」とつぶしにかかる。当然、子供は混乱の極みになる。密室の核家族、母子密着で、どっかで「そうぢゃないこともありえる」という可能性を見付けられずに、子供の方が親にばっかベクトルいくと共食い、精神的な生存競争になる。実社会に出る前に家庭内で、すでに子供は挫折しコジレる。
大人モデルの不在で「良い子」モデルだけある。それでなんとか生き延びるための方便として、「良い子」をやめようという一方「良い子」でありつづけたいということで、折衷案として「大人になった良い子」という理想を設定する。良い子の自分壊したいのだけど、それ以外の世界知らないから、それを守ることしかできないという矛盾?自分の中に於ける、敵と自分ちう、体制ve反動という社会という像のむすび方。体制ve反動は、実はひとつのモデルの陰陽で、晴れて脱出したつもりでも「親」になったかつての「子」が自分の子供に同じことをする、良い子スパイラル。
昔のかたくるしい「良い子」モデルに刃向かう為の「いつも活き活きとしてられるほんとうのアタシ」という偽りの自己を求めて行なった「アタシさがし」とは明らかに違うタイプが現在主流になってきている。社会や周囲に対する際限のない復讐心や不信感の払拭という欲望の為の「アタシさがし」、体制に探して認知してもらう「大人になった良い子」なアタシ状態をさがしにいく。そういう状態になって、自分は常に正しい、だからそんな正しい自分を全世界は認めろと。
その根拠/よりどころが世論というか正論というか「良い子の意見」で、主語が「私/おれ」じゃない。正論があれば自分の欲求ぜーんぶ通ると思ってるし、言ってることの「良い子」っぷりとやってることの「自己充足欲望出しまくり」の紐帯。正論ふりかざした本音は「自己充足したい!」の一点に集約される。
「良い子」で「普通」で「世論的」だが、無自覚に欲望充足願望行為しかできない。経験・イメージ・情報抑圧されまくりで、それを他人に投影して攻撃する自己言及活動。投影による攻撃は諸悪の根源だが、他方エネルギーの元だったりもする。
なにかこう過剰に欲望はあるのだが、コード化学習がない(=ディシプリン欠如)ので欲望だけ無制限大開放状態(本人気づいてない)つう、そうであるがゆえに、自己実現欲望全開=一発逆転系だめ。「良い子」という「偽りの自己」の仮面性には気づいたが、それ以外のチョイス(別の世界の)のイメージがないため(あえて文化的素養がないからと言ってみる)、自分が距離を取ろうとする「良い子」にリアルな内実を与えようとする遂行的矛盾を犯し自称普通ルサンチ丸出しになる。
その自己充足の証としての、周囲への他者/身分/社会的テリトリーへ自己プレゼンス=正論を盾にした「植民地」獲得行動に走り出す。植民地先を暴虐無尽に抑圧・搾取し、均衡を保ってた場そのものに無限大な破壊行動を尽し、場や人間関係を疲弊させる。そうして植民地が持たなくなると自己充足が得られないので、次の「植民地」獲得へと移動する。この繰返しで内なる本土も益々コジレるという自他共に疲弊するココロ植民地戦争の内実がコココロの命名につながる。

そのココロの植民地主義戦争に勝てればまだいいけど、負けちゃうときびちいなあということで、それは「パブリック」な「インディビジュアル」(この場合「大人になった良い子」)つう近代神話=ペルソナを無自覚に被っちゃうと、ソレ欠如怠惰から無制限に自己の充足を求めちゃう問題。構造的に自立した個人を無自覚に設定すると、それとの相関関係で欲望が無際限化する。
そういうイタイ状態って結果が伴わない。で、つまみ食いのショッピング状態になって、いつまでも初心者的な未来への期待の地平に留まろうとする(躁的防衛DQN状態)その一過性状態を保つ為に、次々とあちこちから「問題」を見付けてきてはチラかしつづける。

要は親によるジェンダー的なダブルバインド状況とか共食い状態に於ける強い抑圧に敗北しつづけるとそおいうコココロ的な人になるのでは。唯一のこってるのが親による「良い子」の植え付けで、それはいやだからそれは避けたいんだけどそこしか残余がない。だから「自己充足願望丸出し状態」と「世論/正論/「普通の考え」=良い子の意見」プレイが同居してるんではないかと。
例:だめ連、ちょとボランティア、なんちゃってウヨク&サヨク/活動家、思想・政治ヲタク、活動専業主婦

最優先する親の良い子コードへの挫折感があると、実社会良い子コードの「男のような男」「女のような女」にも挫折する。後は、理想は「女のような男」「男のような女」のまま、実装として「男のような男」「女のような女」のペルソナを演じようとする。元々陰の薄い父殺しは簡単に出来ても、父の不在で良い子裁定権を一手にギッてる母殺しはそうそうに出来ない。それは守らなければならぬ存在に刃向かう「悪い子」という評価に直結するからだ。すると、どこかで遠くで陰の薄い父権を復権させて、その父権という正論をもってして母を倒そうとするのか…。

成育に於けるジェンダーの植え付けとその後のについては、まだまだ考慮中。うまくこなれなてない。。。