尾崎の闇

某所で30代某人が熱く尾崎を熱唱し、そこにいる20〜30代活動畑系なひとが、また熱くイレこんでる場に遭遇して、んんん〜「演歌」ってこおいうモンなのか、と。そういうモンを未だに必要とし心頭する「下の世代」って、一体。。。や…やっぱり絶対を求める「父性」復権?(汗)

尾崎世代は「ニセ団塊ジュニア」ってことになるかな。確かに1965〜1975年位の産まれのひとって、その人の建前の主義主張とは関係なしに、根本的な物事の捉え方からして、ええっ!て思う位すっごく保守化してる面があって、ワタクシなんぞ、「若いクセに…」とジリジリすること多々ある。尾崎的な「反抗」の仕方って逆に官僚的なものを呼び込むというか、そういうものを常に必要とした前提でその「反抗」が成り立ってるというその構造そのものの保持。学校(管理)社会を批判すれど、一番学校(管理)社会を必要としてる事実。
そんなだからか、下の市民グループや元マネジャーが唱える「心の葛藤」トンデモ理論、そんなトコに尾崎が活きつづけてるそのことが、なによりも尾崎の不幸そのものなんぢゃないのかな?そうして、その尾崎をリフレインするより手だてが思いつかないという人々の、取り残され感、行き場のなさそのものでさ。その焦燥感はだから、怨歌として今日もドコかの片隅で熱く熱唱されてくんだろうな。無論、焦燥感からネット依存で執着してるひとはいるだろうが、そんなひとに尾崎を聞かせたからって、どーなるものでもあるまい。別に歌を批判してるんではない。が、しかし、過去の袋小路の実例であって現在のソリューションとはなりえないだろう?共にどちらも「閉ざされた円環」そのもの。そんな過去の反芻に取りつかれて無効になってる現在の不幸ってあるだろうに。それが「ネット社会の危険」とやらに結び付けるのはムリありすぎ〜。いまさら学校でもあるまいし、もうナニに怒って「反抗」すればいいのかすらわかんなくなってる状態なのか。だから、ソレは一体ナンなのかといえば、「平和」であることの不幸なんだろーな。ひとって奴はつくづく、わがままなんだ。。。

団塊ジュニア世代攻略の為のマーケティング
http://www.rad.co.jp/random/43/04.html
尾崎豊通し、ネット社会の危険性に警鐘
http://www.mainichi.co.jp/digital/network/archive/200306/16/7.html