決断の繋ぎかた

上の事件でもそうだが、学校まわりに限らず、とにかく「決断」できないひとがあまりにも多い。
なにか問題が発生し、なにがしかの障害となって立ち現れるとする。そうした時に、どうするのか?行動基準といえば「決断回避」することを最大優先事項とあらかじめ断固として決めている場合が、イヤに多い。そうすると、どういうことが起こるかというと、ひたすらパニくってた教諭のように、まず眼前でどういうことが進行しているのか、問題として認知できない。だからなすがまま。
そしてようやっとソレが「問題」であると認知したとて、それをどうやって他者とコミュニケーションしてってどういう繋ぎかをしていいのかというコンセンサスづくりの「合意形成」というプロセスがないまま、「こわかったんです〜」という各自全面自己肯定という名の保守に全力を手向け、その結果に於ける事象以外の可能性を一切排除する。または、「110番通報に手間取って…」と足のひっぱりあいに始終し泥沼状態で、問題の本質を闇へ闇へとほうりこむ。まあ、そうそう、こんな凶悪な事件は起こりえないから、それで決断の無能ぶりを助かってる関係者は多いのだろうけど。しかし、そんなことでいーのだろうかね。
なにしろ、「判断を間違えた」ならともかく、「判断できなかった」んだから、コトはいっそう深刻なんだが。それをドコまで独りの狂暴犯におしつけて「被害者」になっていられるんだろうか。ホントにヤバいよ。だって、その「判断出来ない」無能の自己正当性が、さらに犯罪を凶悪なものにしてるのに、全然シカトしてるんだもの。
そんなコトいったって自力でどーにかできるコトはかぎられている教諭に責任を問うのはしのびないというのなら、そんな教諭&学校に児童を放置してしまった無防備な恐ろしさをわきまえるというのが、この場合のコンセンサスなんだけど。したけど、新しい?池田小は建物にやたらな武装をほどこすことで、人的問題をクリアというか曖昧にさせることに方向づけた。

コココロ系「『良い子』といわれて育った子供、大人になってなんになる」
http://hizzz.hp.infoseek.co.jp/hizzz/d&f/13_txt.html

それでコレは、決定することを放棄したこの国のありかたという議論にも繋がってくるのだけど。さて、いつまで、何人のモノホンの被害者をこしらえてまで、あくなき無能ぶりっこを続けていけるんでしょうかねぇ、我々。。。