詐称有栖川宮

ひさびさにワイドショー的な事件である。事件であるんだけど、昨今の残虐な殺人事件とは違ってなにか一様にユーモラスでさえある。事件をつたえるTVの中でも皆どこかウキウキしている感さえある。なにしろキャラがこれ以上ナイという位に出来上がっている。16年前から「麿」と言いだしたホモ男と、激しい自己顕示欲にまみれた田舎女というパチもん「成上り」コンビ。ちょっと考えればあまりにもウソ臭い詐称さわぎ。
被害者とされてる人々や容疑者にまつわるエピソードを語る人々のチープな3流感というかワキの甘さというか「こっぱずかしい欲望」が露呈してる。いくら上品ぶって喋ろうがハイソやセレブという「権力」とお近付きになりたかった訳だし。だから知りもしない人の「結婚披露宴」とやらに御祝儀という下心を包んでイソイソと出掛けて関係して逆に利用されてしまう。どっちもどっち、この容疑者に関係した人々は彼らと同類なんである。だから、「騙された」とマジになっても、「おかしいとおもった」としたり口調で証言しても、滑稽きわまりない。ワキ甘いからそんな奴のターゲットにされるし、事件発覚してなおもそのことを理解してないからTVネタにされて消費されあいもかわらず使いまわしされるのである。似非を気取るみえっぱりの墓穴。それを自覚しさらにネタにするエスパー伊東というキャラも出てくるし。おいしーなぁ、もう。3流には3流ならではの生きのび方がちゃんとあるんだよな。
そして面白がってるTVのこちら側も「勝ちたい」「尊敬されたい」「注目されたい」というベタな欲望を、もう骨の髄まで理解し共有してたが故に、喜劇ドラマとして堪能できる。いやー在るんですねこういう人生、劇画よりも劇画チックな実生活。女はなんでも金妻にあこがれてそれをそのままやりたかったとか。多かれ少なかれこういう「特別なアタシ」バブルを追求めた過去が、それが正当とされた意識が身体の刻印として残っているからだ。事件は、そのバブルがいかに劣化してきているのか、そうなってもそれを捨てられない人々がいかに多くいるかをさらけ出す。
ワイドショーでは今のところ、表情薄く無口な男に比べて、過去ネタ多くよく喋る華やかな女が盛んにほじくり返され事件の主導権をにぎってるかのように印象づけられてるが、どうなんだろう。中心は空虚という日本的権力の在り方がここでも反復されてるような感じがするけどね。
しかし、此れ程「皇室」って記号はひとを思考停止に追い込むのか。いや、そういう思考停止な「権力」を必要とするひとがこんなにいるってことだな。なんてったって、中心がベラベラと既定しないからこそ自分にとって都合がいい。世の正統といわれようとするものにとっては、自分の来歴についてコクる必要がないのである。したから男は喋らない、喋る必要がナイ。なんてったって自分が権力だと決定したんだから。「麿」といってさえいれば、あとはどうにでも解釈が膨らんでいく。
が、しかし自分の正統について解釈する者を必要とする。常に権力は我にありと自分にそして他者に強いる「何者」かであると。それが権力は我にありと裁量権を放つ女であり、その現象を裁定することによって権力の一環となれるというその構造に魅かれて関係した人々であったのではなかろうか。こうしてひとつのカタチが完成する。コレってまったく「国家」とか「民族」といったナショナリズムのふるまいだったりもするね。もちろんなにか憎めないキャラの2人の背後に御約束のように数珠つなぎになってるらしい、政治結社だのマルチだのM資金?だののあやしくてウサンクサイワールドお御包みとして、その依り代が「皇室」だったってことで公安までもが絡んでくる、幾重にも嗤うナショナリズム状態。
そしてそんなのが支える権力構造が歴然としてあるということだ。こんなにも捨てられない人々がおり、その人々がその処世術ダケをたよりにナショナリズム的なものに「負けないように」サバイバルしようとする限りは。かってバブルを履修したように、これを勉強する連中は多いだろう。所詮シニックは無力だと、寄る辺ない鬱屈したプリンス&プリンセス達はさー。(藁)