ネットアーキテクトとスキルとの関係

オンライン日記の新しい可能性
http://japan.internet.com/column/atlas/20031022/1.html
なんでも、はてなダイアリーが急成長してるそーな。
いろいろなトコで話題になってる。ふむふむ色々興味深いんだけど、中でもBlogまわりに限定するにはもったいないハナシもある。

なんで日本ではTrackbackが受け入れられないのかという話になる。一つは技術的に理解しにくいということ、もう一つは「明示的に」引用を伝えるというその明示性が馴染まないんじゃないかということが出てくる。レーティングもそうだけど、ディベートの伝統のない社会では、他者を評価する/他者からの評価を受けるということに関して非常にナイーブだ。あらゆることについて言えることだけど、意見への評価と人格への評価を切り分けられないし、議論→喧嘩みたいなことがフレーミングを抜きにしても起こる。
これに対処する方法として「教育とアーキテクチャ」「評価の数の規模を大きくする」とこの筆者は提案している。確かに順当に考えればそれはそうだ。すごく前向きでまっとうなトコがネットエバンジェリストというかブロガー的、高偏差値、高スキルってカンジはするんだけど。ああ、かなりヤないいかただけど、「階層」は歴然としてあるなーと。それはこうしたアーキテクトにつっこんだ論を行うのなら特に自覚しといたほうがいいな。
通常、掲示板のお約束として板内世論の成立に寄与しないリンクや別版の話題を殊更に持込むことは大抵フレーミングになりがちだから排除の対象となってたりする。その結果内輪固定化してツマんなくなる。2chはジャンルを細分化することと数多の名無しという多数視点を導入することによって活性化したんだけど、特にコレという「原理」が成り立ちえない昨今、ヘタに「…である」とロマン=理想をマジレスすると四方八方からボコられ崩されるから、片っ端から「…でない」と裁定権握ることでプレゼンスしとく、無傷で世界を把握してる全能感を保つ連中の“負けないための”処世術がシニックだったりもして、したから「キター」という感覚でその処方箋が伝搬し、2chならでわのふるまいであるかのように全体を支配しだす。「嗤う日本のナショナリズム─『2ちゃんねる』にみるアイロニズムロマン主義北田暁大(『世界』11月号)で論じられるとおり「形式への戯れ→形式の戯れ/自己目的化」になって、またもやダンゴ状態になる。
こうした状況で、ネット=2ch=便所のラク書的なイメージや掲示板荒しを嫌い、自分のサイトや認証の必要なメーリングリストに逃げ込んだひとも多いだろう。しかしそれではいまいちオープン&コミュニケーション=コミュニティを実感しずらい。しかしその負の対処コストには耐えられない。そんなトコをウスク網羅するのがはてなだったのではないか。
Blog元々の「ニュース」発信をバリバリしたり、クリアカットに評論カキコしたり、だらだら日々のよしなごとを綴ったり、こうしてラチもないヨタを吐いたりと、内容も長さも形式も任意にカキコできる。でー「明示的に」リンクしなくても、自動的にリンクされるという繋がり。しかし、「明示的に」リンクし他者に影響与え続ける為には、2chのコピペ乱発とは違ってそれなりのテクが必要とされる。そういうある種のスキルカードによるヒエラルキーがひとつのシステムの中に潜んでいるが、それはあまり表面化してこない。“負けないための”カキコを続けるっていうのも、結構パワーが必要である(だから、必然的に2chではツッコマレ度の低い1行レスみたいなのに収斂してくのであるけど)。
掲示板では目立たなかったリンクダケな行為も「明示的に」リンクしたってコトで、閉じこもってボソボソと自己吐露してても、その背景や文脈から切り離されてはてなではひとつのキーワードとして扱われ高尚な論評ページに自動的にトラックバックされるから、掲示板のように他者の不愉快な意見を目にせずに自分の文脈妄想にひたることが可能となり、自分のプレゼンスを示したという幸福な状態は温存され続ける。
そんなアーキテクチャのふるまいが、カキコするということについてまわる責任と義務、「他者を評価する/他者からの評価を受ける」という作用反作用の重さから逃れ、でもみんなの中にプレゼンスをたてたいといった多くのひとたちのリテラシーに合った気分なんではないのかな。曖昧なパブリックイメージ。そして、それは、トンガリスノッブのネットエバンジェリストからしたら、いらいらする有象無象なんだろうけどね。いやしかし、そうやって自分こそはイケてるスノッブだとか安心するツールだったりもして。平行世界のようで以外にそういうのも共存して補完してるってトコがいいこととする、これもひとつのネットロマンかもね。