愛と資本主義

「勝ちたい」「認められたい」というのは、はっきりいやー関係落差ゆえに欲情しそれをカテに拡大するという資本主義のお便利欲望はひとをどんどんガキ化させるのだ。このハナシもあまりにもガキしすぎて失敗した、それだけのこと。
え?だからそんな資本主義に抵抗する反資本主義なヲレ様はヲトナなんだって?しゃらくせぇヤイ。それこそ大ウソツキ。解ったフリして自己愛に都合の悪いコトは排除しまくる「社会派」と称するそんなことをなおも公言してハバカラナイ愚鈍なそのセックス・コンシャスは、ほら、それはナニ?そこにタッチしないで、エクスキューズとしてウエットな壁を築いて結局は自己愛におぼれて社会を消費しまくってるだけぢゃん。『東電OL症候群』で鼓舞されてる現象は、岡崎京子椎名林檎のような女の欲望と自虐を表現する「何某の教祖」なシスコン的もてはやされ方は、まさに反資本をリスペクトするスノッブなヲレ様の都合の良い自己愛の愛玩そのものである。それって、まさに資本主義の要請するお子茶魔そのものでないのかな。もののみごとに言ってることとやってることの違うのに、少しもそれを見ようとしない人々。まあ、それにくらべたら、「純」文学して、素直にコクった島田は少しはマシなのか。トホホだな。

この世界を女で生きることは― ―いつも言うんですけれど――ものすごい違和感があるんです。違和 感を体感しながら生きていくことは、船の舳先で絶えず波をかぶっているような気がします。そうやって違和感でこの世界を切り裂いていくと、ナルシシズムやセンチメンタリズムには絶対落ちないと思います。この世で生きることは恥ずかしいことだという諦念みたいなものを心に持つせいでしょうか。恥辱や汚辱を感じるということ自体がプライドなんだと思います。
居場所のなさへの激しい憤り。しかしどんなに叫んでも社会からは黙殺され続け擦り切れる。あげくのハテに「女は抱いてやりさえすればそれで満足なんだ」と甘ったるい自己愛で纏められて陵辱される。あー、エラソーだ。ヘドがでる程、徹頭徹尾エラソーだ。今ここにないことばかり欲望し、今ここにいないから今現在の意味を持たない自分というのにクソみたいな「悪意」で自分を成り立たせようとしてる『グロテスク』の語り部よろしく、本当にクダラナイ。しかし、このクダラナさに目をそむけることなくいかに対峙して渡りをつけてくか、ないんだよな。