光り輝く、夜のあたしを見てくれ

これが『グロテスク』の帯のコピーである。一流企業のエリートOLが街娼となる核心である。『東電OL殺人事件』がネタとなっている理由でもある。これはココロの植民地主義「『良い子』といわれて育った子供、大人になってなんになる」や以前カキコした「エロの攻防」「欲望の暴力」「堕落のエクスタシー」のとおり、世界の支配感に酔いしれるツールとしての性的表現行為である。ヲヤヂになろうとして、ロリコンで島田がカキコしている通りに夢想するヲヤヂ好みのツールを使ってヲヤヂの前に身を投げ続け消耗した現実である。夜の街でベットの中でクダまいてるヲヤヂと同じく、「光り輝く、夜のあたし」を見たいのはなによりもあたし自身なんだから。したから、これは認められたいヲヤヂのハナシでもありうるのである。島田の夢想する理想に応え続ける「女の子」とは実はこういうひとなのである。会社で家庭で街頭で多くのひとがみてみぬふりをするように、このグロテスクな永遠の「女の子」を決して誰もキチンと対峙しようとはしない。これがヲヤヂの社会の夢想した現実であればある程に理想とは程遠のくという帰結(理想とすぐに合致したら上昇で拠って成り立つ社会は崩壊する)を絶対に隠さなければならないから、理想の自己愛の共犯となってくれない中高年な女を軽蔑することによって、いっそう「若さ」がかけがえのない光輝くものとなるのである。そういう生与殺傷権をにぎった自己愛も、またそれと同等に。だから現実に充分若く幼い筈のお勉強のよく出来る長崎の中1が、自己の都合よい自己愛を発揮して幼児に欲情し殺めてしまうなんてコトも起こる。お勉強をよくしたからこそ、「若さ」を崇めるという世間を先取り学習し身につけたのであるから。30すぎても未だ「女の子」とか平気で宣う女がこそここに増殖しているように。止まらない時間を自分で止めたかのような全能感にひたるぶりっこやセックス・恋愛依存や拒食症。永遠であるかの幻想をふりまいて貴重な「光輝く」時をもぎとりむさぼることで自分の時間を直視することを止め癒されようとするお子茶魔ヲヤヂ社会。だからそれがグロテスクだっちうの。
さてこんな内容は、古くは60年代終わりに「See Me, Feel Me, Touch Me」とロックオペラ「TOMMY」でシャウトされ、80年代でホルツァーが「PROTECT ME FROM WHAT I WANT」と光輝くネオンアートにして街頭にさらし、90年代に「アタシはアタシの欲望がドコからきてドコに向かうのかさっぱしワカラナイ」と岡崎京子等がマンガでたった独りぼっちの「女の子」の堕ちかたとしてさんざんネタに使い回された既出ハナシだったりするのである。だから、シツコイが、もうこれすらも現実ではナイからこそ、安心してエンターテイメント出来るのであるし、リアルを見たくない読者も自分の自己愛の中で都合よく堪能出来るのである。ハナシに出てくるひとたちの誰が真実をいっていて誰が嘘をいってるなんてコトは、どーでもいーのである。所詮そのホントとウソは、解釈するひとの自己愛の都合なのだから。
最初にカキコしたとおり、小説を迴る世界のコトは、トンと無知なんであるが、桐野夏生は「エンターテイメント(大衆?)文学」というジャンルに属し、島田雅彦は「純文学」に属してるらしー。そいで「純文学」は、ハイアート、純粋芸術のように「純」ゆえにか、「文学界」の中では一番エライらしー。もう、それダケでなんだかなーである。が、「純」ゆえに、世の中に対して愚鈍になるのが「純文学」なのかな。したから、価値観が急速に変化する現在では、「純文学」が成り立たなくなって、作家や評論家センセエがじっくり本をカキコ出来なくて(だって、こう現実に色々無残に理想のちゃぶ台がえしにあうんだもんね、おちおち理想にひたってられやしない)、そんな己の肥大した全能感捨てようとしないままに次々いろんなコトに口をだして現実にコミットメントし渡りをつけたとばかりに、ドタバタ夢想しているのかなぁ?(黒)ああ、そうそう「女流文学」とかワケワカンナイ区分けが通用してること自体、文学は男社会であるという前提に拠って立つんだな。