愛と理解

人生振返ってよくよぉ〜く考えてみたら、親の悪口しか言いたい言葉=本音=自己がなかったというのは、まことにショボすぎるんだけど。id:hizzz:20030607にカキコしたように体制は母性と育児神話で反体制はサブカルで、親を乗り越えて自己を確立するというプロセスをこのようにして巧妙に回避した。
回避して手に入れたものはなんだったんであろうか。こうしてバブルはじけて、手にしたという幻想が壊れて始めて、やっとショボく身の蓋もない生身に気が付いたということがあるのかもしれない。しかしなおもそこでACという被害のカタチをいつまで装いつづけていられるのか。そういう自分はいつのまにか中高年になり子供も出来たりなんかして。今までの親とは違う「友達家族」というオルタを装い親に反抗し、「親権」という権力を見ないようにしつつも、こんなに子供も自分も解ってる謙虚な自分という在りようを子供に「解れ」と強制するパワーハラスメントぶり。
しかし肝心の親にも子にも理解されない愛されない、からまわり。のっぴきならない状態に於てもなお「好きに生きればいいんだ」と回避しまくりで無責任なクセに関心はあるという「共感」ベクトルで口先だけで介入し理解したり苦悩したりする自分に酔ってる風で、決して他者を理解するというよりも他者を取込んで有無をいわせず自分を解って愛してほしい欲望にみちみちた鬱陶しい存在だからだ。
しかし当の本人は、どうしてそうなってしまうのか理解されないということが解らない。それがなによりも耐え難い苦痛。他者と解りえないことを自覚するのが自立だったりするのに、他者とか自立ってどういうことかさっぱり解ってないから反抗や抵抗しつつも結局は「愛と理解」を他者に要求しつづけて当然と思ってる。そう思い込んでいるからこそ、不可能なものを欲望し獲得に失敗しつづけているという欠落感ばかりたまってるから不幸で苦痛なのだ。本当に欠落しているのは自己主体なのにもかかわらず。
それって思想的立場の前後左右上下関係なく、「戦前」という親をなかったコトにして回避し続けている「戦後民主主義」、この国のドタバタな在り方プロセスさながらなんではないかな。