自己愛

通常?幼稚な全能感は大人になったら無くなるものとされている。大月隆寛曰くいまの成人年齢は30歳だそーだが、実際はもっと延びてるのかも知れない。80〜90年代の大人の定義はすごく歪である。全能感的なものをもってするといつまでも子供であり、サブカル的なものをもってすると子供にして既に大人であると既定してしまう。岡崎の作品にもそのような主題があふれている。さて、その子供にして既に大人だから「終了」としてみないようにふれないようにしていたものはなんだったのか。
中島義道『愛という試練』ISBN:4314009276原田純『ねじれた家 帰りたくない家』ISBN:406211836X。中島は50代、原田は40代半ばであるが、それぞれ成育過程に於ける親/身内の大悪口大会を経て「人を愛することのできない自分自身」にズタボロになってたどりつく。親を乗り越えて自己を確立するというプロセスを経ずに生きようとして齟齬をきたしたことに気付いたらしい。中高年になって「親と同類だったアタシ」に愕然として書かずにいられなかったというか、その年齢になってやっとこさ冷静に振返ることができたって感じか。
「自己を確立する」という近代プロセスふっとばしたんだから、あとは幼児のままに無闇ヤタラと「愛してくれ」封建時代しか残らないのは当たり前、ありがちなんだけど。どうやらそういうコトには、近代的教養=お高尚な哲学や反体制運動は役に立たないどころか、邪魔ばっかしてるようであって…(苦笑)。
サブカルは、乗り越えることをあきらめて別の自分たちの世界をこさえて分散化/多様性ということで乗り越えたこと=ポストモダンにしたんだけど、結局、近代以前のソレは歴然として未解決のままにあって、今、癒しとかいって目先を誤魔化すか、解ったと自己既定すると世界がくずれるからあくまでもカルトに妄想固執して視野を塞いで鬱いで進むことも戻ることも出来ないトホホな始末。コココロ系のように無論、そゆ不安定な積木細工がグズグズになるのを、なおも乱暴に取りあえず積み上げようとするパワフルなコワレ系もいる。
そんなひとには、この2冊の本が吐き続けるベタベタなロマンとリアルの背中合わせはあまりにもイタイ、イタすぎて滑稽でさえある。20世紀はとうに終わっているのに、今だ近代(モダン)ですらなかったという現実。しかし、いつまでシカトしてすっとばして、行ったきりにしてられるのかな。ご同類。