サブカルの終焉

岡崎なるものの総動員集大成のような椎名林檎が売れて消費してしまったことでサブカルの終焉は否応もなくハッキリした。ナンシー関が見抜いたように、どんなコスプレをしようとも椎名林檎は決して顔を汚さない。というか汚せない。やたらバブルバスにつかってる岡崎作品にでてくる女達のように、きれい=ピュアな自分でいる為にはグルーミングはかかせない。ヤマンバ娘/汚ギャルのように何日もパンツかえなくても汚れてもスーパーフラットでいる、男おいどんのような自信を獲得していない。
そういう限界が確実にあった。その部分において致命的であり、中途半端なのである。そのスキを世間=男社会に取込まれる。こいつは安心して遊べる過激な玩具だと。そういう意味に於ては上質のエンターテイメントである。むしろ、アンダーグランドという汚れたふりをした正統派アイドルである。生な動物的自信もなければかってのアンダーグランドがひきずる陰もその心にはない。すべてがフリという虚構。そういう立ち位置である。むしろそういう「構造」を誇示する風でもあった。「構造」って心を隠すためにはつくづく便利な言葉だ。
パーソナリティとはペルソナである。よりコントロールしやすいカルチャー仮面をかぶりつづけることであるとし、その表面を構築していけば林檎的なるものが出来上がる。そのために色んな世界=カルチャーはなによりもそんなアタシの為に存在していたのだという妄想、それは虜になる。アンダーグランドな過激で兆発しつつも絶対拒絶はナイ林檎という構造は、自他主体からの逃避に夢中になってる連中にウケた。
それ以降、中央線沿線でうごめいてるアングきどりは全てお終いとなる。盛り上がってるようでいても、もうそこにはノスタルジーしか残っていない。ギャルでいられない林檎のように。アンダーグランド風が売れる=メインに躍り出るということは、サブカルという主体を建前にしつつも本音はメインに求愛しつづけた欲望をひた隠しにした資本主義カルチャーの貧乏な女であったという身も蓋もない事実を体現したということだからだ。