永遠の12歳

ネット言説id:hizzz:20031120 を迴りネットのあちこちを徘徊していたら、またデジャヴ感。サブカル周りで噴出する「トンガリキッズ」「おとなこども」「成熟拒否」「自己実現」等々、、、あー、それってコレ!まったくこういうことやんか〜〜〜〜〜〜〜〜、と。

青木保
「石原が表現してきた世界は、都市中間層の人物が中心である。湘南リゾート的で、生活の匂いがしない文化である。これは戦後のあらゆる日本人が実現したかった生活である。さらに石原には新宗教的な生々しい大衆の欲望、現世利益的な願望が流れ込んでおり、その言動が非常に突出しているようにみえて、実は大衆願望の枠組みに入ってしまう」

竹内洋@一ツ橋パワーの秘密
「一橋のヒドゥン・カリュキュアムは正系に限りなく近い傍系という学校空間の特有の位置から生成してくる。正系から遠い傍流校であれば、正系をほとんど意識しない。しかし、正系に近い傍流校であればあるほど正系を意識せざるを得ない。正系に近づこうとする「引力」と、目と鼻の先にある正系に激しく反発する「斥力」の両極端の力が働きやすい。こうして一橋には正系学歴貴族文化への脅迫的「同調」か、脅迫的「離反」かの両極端の作用が働きやすくなる」

江藤淳
「「太陽の季節」から「ファンキィ・ジャンプ」にいたる彼の作品の詩は、ことごとく自己絶対化の希求から生まれているといってもよい。同じ衝動が実人生にあらわれれば、それは権力意志、あるいは虚栄心と呼ばれる悪徳になる」
「35歳の石原慎太郎はすでに青年作家ではない。しかし35歳の国会議員は疑いもなく青年政治家である。…彼はいわば、青年から壮年になる間口に立ち止まったまま、文学を政治と置きかえたのである。彼は果して再び成熟を拒否し、孤独に逃げこみ、情熱と責任感と目測とを兼備した政治家に大成するかわりに、国会に議席のある成長のとまった小説家にならないであろうか」
「芸術家や学者にあっては、虚栄心はしばしばすぐれた作品や研究を生む原動力になることがある。それは芸術家や学者の仕事が本来孤独な自己言及だからである。政治家は逆にいつも人と人とのあいだにいなければならない。いいかえれば彼は成熟した人間でなければならず、相対化の荒波にたらえられなければならない」

上田哲
「もしほとんどの国民が手放しで慎太郎をもちあげる状況になっているとするなら、それは慎太郎にとって最大の危機です。凧は向かい風がないとあがりません。もしそういう風を作っておく装置を失うと、彼に対する危惧が大衆のなかにわきあがるんじゃないですか。それは慎太郎自身が一番よく知っていると思います」

慎太郎夫人@石原陣営を取り巻く質の悪い連中について
「うちのパパは頭がいいから、頭のいい人はそばにいなくてもいいの」

慎太郎竹下登について
「したたかさという、男に限らず、人間が人間としてこの世で生きて行くための重要な要件は、それがしたたかであるが故にも、表だってきらめき、あるいはぎらぎらと人の目にとまるべきものでは決してない。表だつよりもはたの目にとまりにくいしたたかさの方が、人生の武器としてはるかに効力があるはずだ。そして、目にとまりにくいしたたかさの方が、識者、好事家にとっての魅力となり、そうした魅力こそが長持ちして飽かれず、己一人に限らず周りにいる者たちの人生に対しても強い効力を持つ」

佐野眞一
「政府の豊富な資金援助を得て豪華客船を世界に就航させたエスタブリッシュメントそのものの日本郵船とは違い、注文を受けたらボロ船で飛脚のように何でも運ぶ山下汽船は、いわば海のベンチャー企業だった。エスタブリッシュメントに対する反発とその裏返しのコンプレックスは石原慎太郎の人間像を探る上で重要なテーマだが、その淵源の一端は、わが国海運業に占める山下汽船の特異な位相に求められるかもしれない。」
「敗戦によるアメリカへのコンプレックスや、上流階級に対するルサンチマンをほとんどもつことなく「戦後」に登場してきた石原慎太郎という人物を検証する上で本当に見るべきなのは、彼の変貌ぶりではなく、むしろ頑固なまでに自分の座標軸をかえていないことである。かわりつづけたのは慎太郎ではなく、戦後日本のほうだったのではないか。そこに余人をして絶対に適わないと思わしめる慎太郎の自信と魅力がある。しかし、皮肉なことにそれが逆にアキレス腱となって、「成熟」を一貫して拒否してきた男特有の自己批評のなさや深みの欠如となって現れ、慎太郎を政治家として大成されない理由ともなっている。」
「短気、わがまま、粘りのなさ、骨おしみ、非寛容、オカルト世界への傾斜、華麗と成熟を拒む幼児志向。これに強烈な国家意識という指摘を加えれば、そこに等身大の石原慎太郎像がほぼうかびあがる。ここには「大きな餓鬼大将」ともいうべき慎太郎の魅力も、慎太郎が嫌悪と反発の大将となる理由も、すべてといっていいほど語られている」


「同じ物書き同志ハラをわって…」などと対抗意識むきだしつつ(なにしろ副題が「当人も知らなかった石原慎太郎」だしな)佐野眞一が当人インタビューを含めた慎太郎像を書いた本である。長い引用になってしまったけど、あんまり面白いモンで…
ここで証言するヲヤヂ達の醸し出すヲヤヂっぷりが、これまたおいしい。オマエがソレをいうかぁ〜のオンパレード。自己言及の嵐なのである。

そして、それは、当の慎太郎が、ずっといわれ叩かれつづけてソレを手掛かりとして生き延びてきた本人が一番よく解っているのである。だから、慎太郎にとってはこの程度のことはヘでもない。上田哲のいうとおり、むしろアゲンストウインドなんである。ところが多くの反石原勢はアンチヒーローというスタンスに随分と無頓着なまま素朴な石原非難を行い続けるから、結果的に石原エールを送るカタチに組み込まれてしまう。旧社会党の中でも毀誉褒貶のハゲしかった上田哲が、それだからこそ一番慎太郎の本質をズバリといってのけたというスタンスというものの皮肉を感じるなぁ。。。