DIYという思想

そもそもサブカルって、既存カルチャーでまかなえないモンをこしらえるってことだったんだよなぁ。Do it Yourself。
とにかくソレがなくなったと、サブカル現場で嘆かれてる。いろんなカキコを読んでて、遅ればせながら気が付いた。ないからしゃかりきにこさえるしかなかったサブカル第一世代はいまや少数派で、始めからサブカルが存在してるのがあたり前な世代の方が多いってことだ。親子でマンガ全集とか買って読んでだり。と、ゆーことはマンガ等を許容する家庭に育っておねだりすればいい世代と、マンガ読むこと自体が勉強しない不良視されてた、サブカル=カウンター世代と、そりゃ温度差出てきて当然だな。でー、今その温度差/欠落がコミュニティ維持に亀裂を呼ぶ。

消費者達は「萌え記号(オタ受け要素)」という「妄想ネタ」のみ必要としている。かつての同人誌は、消費者の代わりにそれをやって作品を作っていた。しかし今は、消費者の大半が脳内同人誌(妄想ストーリー)を造って楽しんでいる。これにより、同人誌の本来の必要性は無くなった。しかもメジャーもこの主要の消費者に合わせてくれるようになり、同人誌とメジャーの境界が無くなってきている。

体制化したコミケ、そして主流になったコミケ
http://comic2.2ch.net/test/read.cgi/doujin/1071675443/

柳下毅一郎は『クイックジャパン』を指して「オタクがサブカルをしようとしている」といったけど、「体制化したコミケ、そして主流になったコミケ」では、最初は創作者/創作物という現実との接点を限りなく狭く深くした批評=パロディだったのが、そのパロディのコピーを繰返す中で創作者からも現実からも乖離し劣化コピーの無意味の行き着いた先で、ついにはオタクを称号として自称する迄になったオタク変遷が熱く語られている。
最初から「やおい」という無意味を引受けつつ、創作者/創作物への「愛」を強調することで現実とむすびついてたハズの女性同人誌サークル(一応儀礼的無関心でリンク無)でも「イナゴ/ジプシー問題」として、人間関係や市場を食い荒らす「買い専」ばかりで、「コミケに行く、同人誌を作るという行為が手段ではなく目的になってる」ことが指摘されている。
そんな?クリエイター志向の受け皿となる某「ゲイジュツ表現」系大学は、入試に「表現と社会」的な小論文カキコさせて表現媒体等の他者性や社会性を意識しとくようにやっきになってるらしい。

食玩も限定性やシークレットばかりが話題になるようになり、フィギュアの完成度より、ネットオークションで高値がつく人気キャラがもてはやされてるようになった。その責任の一端は我々にもあるとはいえ、「何を作ったかではなく、どう作ったか」を見てくれる人間がほとんど育っていないことに、焦りを感じる。
熱湯はいつしかぬるま湯で埋められ、ユーザーも「心地よいぬるさになりましたなぁ」と喜び熱さを忘れた。いや、既に熱い湯を疎んじ始めてさえいる。

宮脇修一 専務の異常な愛TVブロス04.1/10号
http://www.tokyonews.co.jp/book_pages/book_tvbros001.html

海洋堂の宮脇専務は、中国に発注すれば簡単に食玩が出来るとおもってるプロである筈の同業者にもまた、同様の厳しい指摘をしている。指摘のとおり、コミケでも芸術でもサブカルでも商売でもコミュニティでも、集団というものがたどる「いつかきた道」デジャヴなんである。
…だとしたら、「萎える」なんてとんでもナイ。絶好のチャンスなんであるけどね〜