何を作るのか or どう作るのか

前にカキコしたんだけど、昔、クリエイターブームが始まった頃、「どうしたらクリエイターになれるんですか?」という発言を聞いてひっくりがえったことがある。
ものすごくゴカイされてることに、「何をするのか」が一番大事とマジ思い込んでいることなんである。これがそもそもボタンの掛け違えなんである。自分の日々の生活を見渡せば、やることなんか沢山ある。なんだっていーんである。ところが、「何をするのか」が一番大事なひとは、えてして自分のやっただけのベネフィットに見あうものを探そうとするから(平たく云えばカッコつけてる)から、やるモンが見付からないのである。たとえ目のスミに入ってても、それは利益出ない=リスク多いからやりたくない、からやるもんがないとなるダケ。そういう個人の内面的発露を満たすことをプライオリティとしてるトコからは自発となるバザール方式は決して成り立たない。
同人で指摘されてるとおり、そゆひとは関係という属性を楽しみたいという手段が目的化してるので、群れられた時点で当人の目的が終了するので、「どう作るのか」なんでメンドなトコには決していかないのである。
まー、普通コンサートとか美術展ハシゴしてミーハーと群れてても音楽/芸術活動とはいわないのに、コミケとかハシゴして群れてると同人活動と、、、さしずめ運動ギョーカイにありがちなイベ活動(消費)家って奴でしか。
それはともかく、複数形の〈私〉でほかほかしてたいひとに創造的参画はハードル高いが、DIY=簡単、コミュニティ=みんな同じ、ボランティア=親身という幻像をふりまいたサブカル平等思想は、学校教育が平等均一(底辺の底上げ)と自由(個性を伸ばす)というジレンマであたふたしてるのとまったく同じ壁にぶつかっている。