エースは誰だ?

なんで70年代後期にあった「その先」に行こうとする気運が80年代に入ってなくなってしまったのかずーっと考えているんだけど、TVドラマ『エースをねらえ!』見てて、ちょっと気が付いた。
中高校生向けの少女マンガなんだから、当然、主体は主人公岡ひろみにあるもんだと思い込んでいたんだけど、実はソレ違うってことだ。ひろみは今だ生まれでていないマンガ上の未来の超人予定像=理想であり、竜崎麗華(お蝶夫人)はもう存在しえない過去の超人像なんである。すると、第三の娘である緑川蘭子(お蘭)その人が、全共闘世代である作者そのもの現在か?過去をあこがれ現在に畏怖する理想という三角関係。
超高校級という「良い娘」素質なのに、未来と過去の下におかれ使われるダケ使われて「選ばれなかった」。主体になれない現在という特別なアタシの不能。母を愛してくれない父への代理としての異母兄へのけっして報われることのない対幻想。このまわりくどさ。そんなだから、もーどろんどろん。怨み節。その先なんか一歩もありゃしない。だから、ひろみは無論お蝶にも破れる、まさに70年代全共闘娘そのもの。い、イタすぎ。
利用できるモンは利用してパワーつけ動物変化するひろみでも、あくまでもモダンを背負い貫こうとする孤高のお蝶でもない、元々在ないモンに勝つも負けるもないんだけど。でそんなその後は、対幻想に満たされない自己承認を重ねてモンモンとするお蘭=超高校級という器に封建的情念のやるせなさの解消ひとすじに。作者は一度は自律する娘ひろみをこさえたものの宗方コーチ死してイコン化して皆(特に娘達)の「連帯」でそれを乗り越えるとゆー帰結にしてしまったし、その後の作品傾向から見ても、そういう自分を導いてくれる対幻想が巨大化して超然「神」に至ったのでは。
まあしかし、ひろみが今だ存在してない娘であるからこそ、あれだけハードなスポ根の中で(お蝶やお蘭の過去-現在に至る実在の苦しみを負わなくでいい)アッケラカンとした自我でいられるんであるし、そうであるからあれだけ陰影にとんだワキを飲込む怪物的主人公になれるのである。逆にいえば、才能あるワキがワキにないと「ひろみストーリー」は成り立たないってコトに。
大リーグボール的一発逆転(=全共闘)なんかありえないから努力して筋力つけよと男性並パワーテニスの道(=男女均等)を宗方は説くんだけど、当時の中高校生は特別なアタシ=「良い娘」でありつづけようとするお蘭のブザマもお蝶の滑稽もひろみのジミ努力もヤダし、その他大勢の凡庸なアタシは才能あるワキも導師もいないしなー。導師なんかオカルトだし、大抵そんなの指導する自分に酔ってる支配欲に満ちたウザイ奴ばっかぢゃん。なんでそんなのに主語を委ねて一蓮托生しなくっちゃならないんだぁ?んならソコソコ利用できるモンだけつまみ食いして「おいしい生活」してしまったアタシ「これがアタシの活きる道」80年代以降そのものだったつー。
勿論、「良い娘」達でありつづけようとする一派も80年代以降存在する。そしてそれは作者がスピにハマっていったように、そのお蘭的なアイデンティティ追求「娘の救済」はAC的なコジレとなって少女漫画周辺に生息する。
ぢゃあ、その他大勢の80年代的な第四の娘は誰だったのか、、、傍観者でありながらスター上級生の藤堂や尾崎や千葉といつのまにかタメ口きいて主人公達に関ってる愛川牧なのかな?…といって、マキにこの先があるのかどうかは知らない。先の娘達と同様に、(たとえ不本意だとしても)先がなくても生きてはいけるすべはそれなりにあるからねぇ。