失ったコトバ

生きることとは変わるということだ。人は変わることで生の証を得る。だから変わることを怯え、変われないことに悩み、変わることで幸福になったり不幸になったりする。
そして人が死ぬとき、その衝撃はまわりの人間を変え、生きることを再考させる。もっと言えば、人は誰かが死ぬことで生きている。なぜなら人は一人では生きていないから、例え恋人同士だろうと世界の中心で2人きりではいないから。

空腹海岸海の家 実行準備委員会(アジト)
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20040226

たしかに、確かに。「変化」というのは、慣性の動物である人間にとっては大変な脅威でもある。普段はそれ故、慣性回避しつづけても、外部的変化によって否応も為しに変化に巻込まれるという事態は起こりうる。そうした「試練」を人生は負っている。その孤独、淋しさ、不安を解消する為に、理解者を求めたりする。


指輪物語ロードオブザリング)について
「人間は愚かなんだから、他の知的生命体も愚かに違いない」と思いたい気持ちはよく分かるが、それは人間の愚かさに+1する行為でしかないんだよな。「俺が分からない問題だから、みんな分からないに違いない」なんて事を言う奴がいたら、「お前何様やねん」という事と一緒。

K氏の読む価値なし日記(埋葬)
http://d.hatena.ne.jp/kimagure/20040226

「変わらなくてはならない」とアタマで理解していても、実際に一歩を踏み出す迄には、今まで変わらなくてよかったという経験値が、巌のようにそびえたつ。理想主義をその羅針盤としたのであればある程、その目前にそびえたつ壁は高く、その足元に裂けたキャズムは深い。前にはいけそうもない、が、後もどりも出来ない。まったく新し横道に行くのは理想主義をめざす慣性での手のうちではありえない。…そうすると、理想主義を掲げたまま変わらないでいることという、妙な回避を模索しだす。

「中の人」は脆弱な自我に寄生し、懲りたり、困ったり、反省したりするのを嫌がる。緩やかに自滅していくように人間をコントロールしようとする。進展や肯定や成功や幸福を忌み嫌う。「ダメな自分」を認めるという作業は、一方でこの「中の人」からの干渉との格闘になる。

DOXA(独立左派日誌) 山本夜羽音
http://d.hatena.ne.jp/johanne/20040226#p3

「「自我の弱さ」は概ね「恐ろしく我の強い奴」に食い物にされ続ける」と山本さんはいう。
70年代ロックで指輪物語を題材とした作品が多いというのは、なんかとてもそれが70年代の「限界性」でもあったということを示しているように感じたりもする。でそれを80年代は越えたのか?というと、その「限界性」認知を回避することに全力を手向けたのではないかと感じる。大塚英志『「おたく」の精神史』 ISBN:4061497030、「新人類は努力がたりなかった」と端的に言う。「努力」はダサいもんになってた。「努力」しなければならない社会のほうが、均等化に反していておかしいとおもわれた。
さて、今、「限界性」を否応でも内外的に認知せざるを得なくなったとして、それでどうしてるのか?額面どおり「限界性」というコトバの中に自閉してる。いかなるオルタを示そうとも、ガンとして他をよせつけない。僅かばかりの「可能性」はもっぱら自滅を待つという従来慣性にノミ使われる始末。
オウム真理教に対して大塚は「その外部に構築すべき言葉をぼくたちは持っていない」とし、その言葉とは「戦後民主主義的な物言い」であると示す。
それらは今も変わらない。id:hizzz:20040223、id:hizzz:20040228を迴る論議は、学術言説によっていとも簡単に「戦後民主主義的な物言い」でジャッジされ収斂されようとするだろう。言語プロレス上ではそれでケリがつく。しかし、生身の松本某がああして存在しているように、数多の生身がそのコトバの俎上に上がることもなく生き続けねばならない。80年代勝ったという生身もそれは押並べて同じである。ドコにいようともナニをしようとも皮肉なことに生きるという状況に関してダケは均等である。
それは強者vs弱者、または勝ち組vs負け組という果てしなきゼロサムゲ〜ムなどでは決してない。なぜなら多くのひとは、視座を変えればいとも簡単にそのゲ〜ムのどちら側にもなりうる、弱者にして強者/勝者にして敗者という状態であるからだ。わがココロのオウムであったりする自分がそこここにいるということでもある。わざわざアタシさがしをするまでもなく、アタシはいつも今ココに実現中なのである。
生き生きとして輝かしいアタシと同様にオウムは存在している。そしてそれがいとも簡単に自己を蝕む。そんな事実は到底容認できない。そんな事実を抱えては、この先生きていけない。そうした数多のニーズに、政治的司法的言語は応え「戦後民主主義」ではあってはならないものと、「共謀共同正犯」なる言語で幾重にも刻印しようとする。3月に入れば、オウムのことなんかきれいさっぱり忘れ去られるだろう。丁度、教団が阿吽の呼吸で犯罪に手を染めていったのと同じように、我々も阿吽の呼吸でソコには触れないように回避する。「敗戦」を「終戦」として忘れようとして以来、そういう「共謀共同」をすることが、「戦後民主主義」としての共同体でもあった。しかし、それではたして「安心」を得られたというのであろうか?ある者を異者として自分と切離す為に批難をあびせそれによって得るという、そんな「安心」とはいったいなんなのか?
今必要なのは、賢人説や壮大な理論構築や思想化などではなく、ささやかな、ほんとにささやかな平場からのシンプルな自分の言葉でのコミュニケーションだったりするのではないのか、と。スピることを目的とするのではなく、文学=ファンタジーに親しむの効用って本来そんなささやかなトコにあった筈ではないかとも思う。
ファンタシーを存分に楽しんだら、本を閉じて映画館を出て、自分を待っている日常に帰っていかなければ、「アタシ」はいくら探してもそんなところには見付からない。