ばれた

酒鬼薔薇君が出所したということでニュースになっていたんだけど、それには「わきあがるほっとけ感」(@svnseedsさん)を行使するとして。大塚英志『「おたく」の精神史』ISBN:4061497030、「80年代論」をとってながら彼にとってナンで「「おたく」の精神史」でなければならなかったのかっていうことについて、たぶん以下の意識があるのかとおもう。

あれ(宮崎勤事件)がばれてしまって以来、自分がやってきたものや『マクロス』とかが真っ直ぐ見れないんですよ。
両側ふさがれちゃったんですね。俺、オウム事件のときに「またばれた」って思ったんです。「二大ばれた」なんですよ。宮崎とオウムとで。
大塚氏の最近の言説が色々イタくワタクシには感じるのだが、それはこの引用した対談で言われてる風な「ばれた」→「なんとかしよう」という糊塗作業が、最近の「僕たちの憲法」みたいな一連として、id:hizzz:20040303#p6の「〈個〉は諦め〈公〉に向かった。→伝統回帰」、id:hizzz:20040123#p2の「文化=政治」のようなベタベタになっちゃってるから尚更なんだけど。オウム等をその当時「新人類の神」とかいって注目したクセに、今は他人事のように糾弾一直線とかなかったコトで回避してる人たちよりは、この問題にふれたということは評価されていいんじゃないかな。サブカルキッズにとって(も)、オウム事件がその終点だったという、イタイイタイ踏み絵ではあるのだけど。
ま、しかしその元々の拠って立つトコの「サブカル」ってやつが、id:hizzz:20040128でカキコした通り結局70年代後半の都内私立高校生的なお遊びで、YMOが80年早々に「散開」したスノッブ文化資本」のおこぼれ、ヘタウマを全国的にありがたがったという事実を突付けられ、かつ自慢&自嘲されれば、そりゃー「70年代後半の都内私立高校生」以外の大多数にとっては、ムカつくしかない。しかし、ソレって「全共闘」世代がさんざんやってきた「68年革命」等の自己肯定な手口と、これまた妙にダブる。本で最初に「80年代初等に資本と結びつい団塊世代の作り出した忠実な「消費者」」って認識したのと同じ路線を大塚氏は踏襲するのかな、トホホ。でも、80年代ブ〜ムに妙にはしゃいでいる人たちの言説は、みんなこんなカンジに見えるんだけどな。ナミダロ〜ト状態。
さて、上記した対談内でつづけて岡田氏はこうもいう。
言論の人たちっていうのは、すぐに一般性や客観的な事実に頼ろうとしちゃいますよね。西部さんだったら、まず伝統というのがあって、それで引っぱろうとする。でも、その伝統を好きなだけで、この「好き」というのが前面に出せないですよね。「俺が好きな伝統」じゃなく、「伝統だからこれが正しいんだ」というふうに引っぱってきちゃう。じゃ本質的な伝統とは何かという話になると、もう勝ち目なんて絶対にないですよね。
そーなんだよなー。「俺はコレが好き!」って主語でものがいえないからなんだかいつもハナシがヤヤコシクなるし、芯ヌキのバームクーヘンという周囲で盛り上がってバッカ。その結果、id:hizzz:20040210みたいなゲ〜ムを、世間みんなでやりだしもするし。
兎に角そーやって、主体ハズして仲間内の自己肯定することにしたから、世間も合意せいや(それに合意したから当然自分も正統承認される)ちう回りくどい手法、主体=正犯がイナイことにした「共同共謀」ダケがある(中身ナイ)大きな物語。同質同類項ってコトに(みんなで)したんだから、そしたら差はナイから、たとえあったとしてもたいしたことないんだから関係ナイ考慮しなくていーことに、しかしその「枠」にフレる迄になる異質な差はただちに断固たる制裁=排除。それがあって初めて、上中下左右、みいんな仲間だなかよしな〜ん〜だ〜の共存共栄策の自由が保たれる、…あー、コレを国歌にすればビッタリだったんだよね>ニッポン・チャ・チャ・チャ