ひとつ、なかったコトに…といってみるテスト

麻原国選弁護人が、一審判決についてのコメントを出している。

いくら嫌われ者でも、その生存の権利とオブジェクションの権利とを認め、公正な裁判を受ける権利を認めなければ正常に機能する人間社会とは言えないでしょう。
「被害者」の報復感情ほど強烈な人間感情はありえませんし、それは非常に自然な感情発露です。
被害者感情」を権利の問題として刑事司法の領域に過度に持ち込むことは刑事司法のあり方を大きく歪めるのです。もともと、人間社会は被害者感情をもとにした「報復」で成り立っていました。刑事司法は、本来、「被害者感情」の支配を許さないところで成り立っているからです。
『麻原を死刑にして、それで済むのか?―本当のことが知らされないアナタへ』ISBN:4883202879

このオウム問題と対比して、スペインで起きた列車爆破テロについて、id:philastsさんが、疑問を発している。

国内情勢で民主主義への挑戦、という言葉が使われないのに、なぜ外国情勢には気軽に使われているのだろうか。
いや、ホントだなー。「民主主義への挑戦」が日本にあったコトを一生懸命なかったコトにして、(そんなコアイことは)もう考えなくていい終了!という「共同共謀」が戦後民主主義の根幹で、ソレ以外の(戦後民主主義にとって都合の悪い)オルタは1ミリたりとも考えてはイケナイ、良い子ならば被害者を思いやる心情ひとすぢ!オウムはイケナイ子、それ以上「意味」を考えてはキケンなのでイケません!ってカンジなのかも。
んな心情ゴトキに流されることないハズ?の意味に価値をおいてる学問の府が、「麻原の子」という意味づけを個である成人に向かって責任を突き立てるクセして建前の秩序でもって切裂くような「自由な学習守り切れない」ってことで、松本被告三女(20歳)の入学拒否ってのには、ビックリ。ぬぁんでも入れなかった学科は「人間関係学科」だそーだが、大学側の頓智か?これわ。大学解体!とか血気盛んだった大学にしてコレってってことで、卓上の自由&正義論はやっぱり文字ズラの限界性を越えることは決してなかったということなんでせうかねぇ。