ネットコミュニティ

id:TRiCKFiSH:20040312「インターネットコミュニティと「第三空間」」に関連して。いつも思うのだけど、こういうカタチにいつも関心が向くのはこういっちゃあナンだかイカにも〈個〉の確立されてない「日本的」なことだな〜と。ネットコミュニティ発祥の地である米国でこうしたことが問題となったことがあるなんて聞いたことない。いや、ワタクシが無知かもしれないけど、いつもひっぱられる実例は国内ダケで、その話題内容も「慮り」といったこと中心。なのに、イキナリ、ゴフマンだハーバーマスネオリベ(←出ましたよ、奥さん!)と、西洋社会学的普遍に結び付けられる。(しかし、TRiCKFiSHさんが注意書きで指摘しておられるように、ネット原理主義ファシズムはある。それは後述)特にネットという〈個〉の確立された上で成立つ「ユピキタス」な場でのコミュニケーション目的の違いによる齟齬って話題には、〈個〉が社会的認知を受けてる西欧社会=自己主張重視と、〈個〉をまるで信頼も認知もしない日本社会=「慮り」同調共感重視を同等社会として扱ってマトリクスを描いてもあんま意味ないしょーがないって感じがするんだけど、そこんトコどーなんだろう?
あいのり&リンク問題については、id:hizzz:20031209、id:hizzz:20031225、id:hizzz:20040202で〈私〉〈公〉がぐちゃぐちゃになってることからくる齟齬なので、自己表出という意味で〈個〉=「中間領域」という概念を持つことが必要かとカキコ。趣意としてはTRiCKFiSHさんが示す社会学用語「第三空間」ってことと同じになるのかな?そういう〈個〉が認識されてない社会故の「儀礼的無関心」という忖度作法ってことはあるだろうな。しかし、そこには言及されないで、イキナリ都市や交通機関と対比するハナシに向かう。れれれ?
中で引用されてる北田暁大id:gyodaiktさん)『ユリイカ』「引用学:リファーする/されることの社会学」で、「儀礼的無関心」の元であるゴフマン説が想定してるのは「都市や交通機関のなか」といった個人選択の余地のない関係性にある場合だと解釈出来るけど、それとネットとは、ただちにイコールにはならないのでは。ネットを覗くというヲチャー能動行為はどー考えても個人自発的なものだし、ましてやリンク/言及という特定サイトへのアクセスは、かなり恣意的な能動発動を必要とする意識関係行為であるからだ。そうした意識的表現空間であるネットと生活空間である都市や交通機関の群衆のなかの偶発的な無意識関係行為と一緒にするのは、かなり強引に感じるんだけど。通常、道ゆくひと相手構わず名刺くばりまくったりビラまきまくったり話しかけたりはしないしなー。
そうしたらネットでの自己表出という恣意的主体は、一体ドコにいってしまうというのだ?ひよっとしたら誤爆かもしれないが、ゴフマン言説に「慮り」問題が言及されてるのかなぁ?もし無いなら、引用されてる文章に「慮り」を見付けてしまうのは、特有のローカル文化背景にあるファクターが発動されてるからでないのかなぁ?電車の中での「議論」や人々のふるまいウオッチングを第一目的として電車に乗るというひとは、少ないだろう。ネット接続行為と目的が違い過ぎやしないか。
都市や交通機関でひとをじろじろ見ない、個人領域侵犯を犯さないというのがマナーと認知されているのは、対人恐怖的な不安よりも先にやみくもな自己表出を目的にしても、ストレスになるばかりで個々の日常目的に到達しないからであろう。問題行為を「注意して周囲の雰囲気が悪くなるのを恐れている」よりも、〈私〉以外のことはあずかりしれぬ責任もてないといったことが第一にくるから、「関係ナイ」巻き込まれたくナイから「見て見ぬフリ」といった意識の方が強いのではないだろうか。「繋がりたい」というプライオリティがあるネットとは、動機意識からして違う。とまれid:hizzz:20040223#p2でカキコした通り、ワケワカメはバーチャルだろーがリアルだろーが一定数いるってことだ。