議論

無論、犯罪に巻き込まれる危険性は家に閉じこもってるよりは外にでた方が増大するが、しかし都市や交通機関で誰が「議論」をフッかけるというんだろう。「「議論」をフッかける」という行為がそうそう自然にある訳がナイ。したから、「議論する公共圏」なんか「「高度なリテラシーをもっている」人にのみ開かれること」のハナシにすぎない。だいだい、ハナシ=議論になるというのが、まずもって解らない。どーやらハナシはすべからく「討論」とか「議論」とかになるのが正しいって思われてるフシさえある。それをベースに論壇に「上がる」為の条件が巌のように構築される。
曰く、「前提知識や土壌や議論方法の共有」がナイと「議論」出来ないっていう説。それダケ聞くと、そーかなと納得しそうになるんだけど。ちょ、ちょっと待て。よ〜く考えよう。。。それってさー、つまり「前提知識や土壌や議論方法の共有」してない「異質」とはハナシになんないっていってるコトでそ。特に〈個〉をまるで信頼も認知もしない故の言動行為個有責任論タナ上げの同調共感重視を自明に引きずったままで、「前提知識や土壌や議論方法」=「文化資本」土壌が違くとアウト!っていうことになりがちな状態は、特定エリートカテゴリー成員でなきゃコミュニケーションは無理っていってる教条ファシズムなんだよな。「聞くだけムダ」「お前ではハナシにならない」「勉強してこい」「場を読め」って恫喝してんのと同じ。他者/異者はダメって言われてるようなモン。責任もクソも、ハナから異価値観・異立場交流はありえないってハナシに。うがぁ〜。
まーいや(よかないけど)、それはそれで限定された範囲での意義があるとしよう。そゆ意義のある者同志でナニ有意義なハナシしてるかってーと、引用されてる山形浩生パソ通(Nif)話のとおり、スタッフ専用会議室でも「俺達って解ってるよねー」「ねー」とか、「あいつバカだー」「なー」みたいなことだったりする。ちなみに、Nif内個人コミュニティという手段は「パティオ」というのがあるが、やっぱそれも既存会議室を高見の見物的なそんな感じ。げろ〜。同質の価値観の純度を深めるなんかタカがしれている。同窓の相手にツッコまないってことになれば、交流を深めるっつたって後はドコでもやることは一緒、仲間である既得権益保守、共通〈敵〉=他者/異者のケチをいかにキメるかで和気あいあいってコトに。トホホ。大学解体「白い巨塔」のお利口軍団からDQNまで、特権クローズドちう風通しの悪いのはダメポ。したから実際のコラボレーションは目的が達成されたらサッサと「散開」するのがまっとうで、中身ないのに「場の維持・存続を最優先」させそこに無闇な「可能性を見る」という目的と手段が逆転するトコが多いけど、単なる淋しんぼってことの解消に負担するエントロピー増大なさまはなんだかなぁ。。。
兎に角「議論」が実際の問題解決の役にたったためしがナイのは、それはひとえにそういう同質前提を、議論が正と思っている人々の欲する「議論」そのものの成立の為にそれを必要とするからである。だから、中々議論は本論に入らず、前提条件を巡っての延々討論(御手続論)に始終してしまう。で、結局そゆ御手続論で成果をあげるとすれば、「俺達って解ってるよねー」「ねー」のPC(ポリティカル・コレクトネス)言挙げつーことになる。
ま、そんなトコにはハナから「上げて」もらえないワタクシとしては停滞でも腐敗でもしたいなら勝手にすりゃーいー(自己責任自己判断で←お約束)ってことで、わきあがるほっとけ感、基本的にシカトなんだけど、中には無視できないケースも出てくる。