正論

松文館裁判では、被告側証人として「控訴の無効」ではなく「裁判官の無能」を指摘してその論理の無効とした裁判判決とか、学者様が現実事件にコミットメントして「正論」をブチ上げて、現実制度に通じずスカをくらうのはそういうコトにあまりにも無関心だからではないだろうか。なぜ失敗するかというと、正論内容や根拠に問題があるのではなく、なによりも議論はその自前の正しさをもってして相手方の論破を目指すからだ。しかし論破される側も論破する側と同じ「前提知識や土壌や議論方法」の均一の者でなければならないという議論成立「前提条件」が不可欠という矛盾がそこにそびえる。議論成立の為の均一性を求めれば求める程に、論点は同質者を選ぶ。それは、必然的に自分の「正論」の正しさを立証できうるのは、「正論」の純度を高める者=同根同質に限られてくるという性質を持ってるからだ。そういう性質があるがゆえに、それがどんな正論内容(ネット=WWW原理主義)であろうともそれが一極支配する現実はファシズムなのだ。しかし論点が同質であるなら「だよね〜」になって論議にはならない。それで双方いーならともかく。と、すると、同質の真逆という線に恣意的誘導したりして迄も争点を明確にさせようとする。
これらの要因から必然的に、議論という名の異者/他者の排除に向かうから、大抵の議論らしきモンはフレーミングとならざるを得ない。かくして同質の者程、論破合戦/言語プロレス/ゼロサムゲ〜ムってことにいとも簡単に陥る。その前提矛盾を無視した自己正論の大開陳合戦というカタチになる。そすると、大抵主張内容でなく、議論を通したふるまいとか周辺知識の多さとか人脈自慢とか声の大きさとかのサイドストーリーでヲチャー決着がつくというトホホなことが多いのが実情。大体、どんな極悪DQNでも自己都合理由にもとづいた正論てのがあり、100人いたら100人の正論があるんだから。だから同質異質に限らず、議論は大抵問題解決手段にはならない。論破は議論に於いて勝ちを収めても現実問題解決にはいつも失敗する。現実の「問題解決」になる話し合いとは論破ではなく、「交渉」というフィフティフィフティの取引である。
運動側が、こうした学者や正論といった解りやすい権威に補強されたい欲望や、リアル例で実証された正論確立の純度を目指す学者側の欲望も理解は出来る。しかし、その両者の出会いは最近どうもうまくいってないように、いや前から空回りしっぱなしってことはないかな。そうしてそれは「問題解決」よりも「正論確立」ってことを優先し続けてきた当事者無視ってことに、原因があるんぢゃあないだろうか。