よせてはかえす世間

阿部謹也『「世間」とは何か』ISBN:4061492624、日本に西欧の個人概念が知られたのは明治以降であり、それ以降の国内知識人は日本の個人=西欧の個人と信じきっているということに端を発し、「世間」という考察を行って国によって個人の在り方や対応に違いがあると指摘した。
「降りる」関連でid:flapjackさんが立てた「世間」をひいて、「「社会」と「世間」がつるんで意地悪をしてくる、だから息苦しさが大変なものになって、救いがない」とessaさんがとても深い展開をされた。
まったく、まったく、禿同。西欧において〈個〉とはひとつの政治的な権利でもあるんだけど、それが日本にくると、わがまま/自己中ってことにされる。責任=他者性社会性のある開いた〈個〉と、無責任=他者性社会性のない閉じた私的なオレ様とは、存在そのものが全然違うからなぁ。またその言われてる「社会」ってのが大抵「人並み/世間並みに」という普遍の社会を装った、自分の所属する特定社会=村で、それがイデオロギーとか持って恫喝するもんだから、もー苦しさ倍増。
曰く「ショー・ザ・フラッグっていってる」曰く「一流国の仲間入りをする為には国際貢献」曰く「一億総懺悔」曰く「反戦デモの動員が悪い、はずかしい日本」等々。
掲げる思想は正反対でも、その議論の正当性を立証する根拠はいつも「世界(という世間)にどう見られるか」だったりするね〜。でも、世界は日本の皆様が思ってるよりも、日本のコトなんかど〜でもいい。「こおんな良い子なアタシを認めてほすぃ、嫌わないで…(でも可愛いかもアタシって)」ちうハゲシイ片思い状態なのねん(悲)。なんだかなぁ〜。人文左派のいう68年革命でも、「自己批判」ということで徹底的に〈私〉をオミットして「同志」になることを要求した。少しでも〈私〉や〈個〉があるとそれは「小ブル」といってドコ迄も責められたりしたしね。建前の主義主張は西洋産でも、適用方法は限りなく封建家父長体制な同期の桜だったりした、と。主体バズシということを、もう何遍も問題にしてるんだけど、この手のやたらな自意識過剰が生む齟齬や悲劇って多い。しかし、そゆ言論な人々はわざとそゆ絡め手をつかってこじつけても、「誰々はこういってるよ〜」って普遍社会を装い主体ハズシ=自己責任免除しつつむりやり他者個人を自分達の陣営=世間に引きずり上げようとするんだからなぁ。世間=複数形〈私〉の戯れ。「長いものには巻かれろ」ってやつ。ずっこぉ〜い。。。

日本では「自立した個人」であることはすごく危険なものです。WEB日記にはそういう「自立した個人」性を薄めて、「社会」とも「世間」とも積極的に対立しないようにして、危険を回避するノウハウが仕組まれていたのです。そこへ、「ブログ」がそういう微妙な事情を斟酌することなく乗り込んできて、ある部分で「新しいビジネス」、ある部分で「自立した個人による情報発信」という形で、鐘や太鼓を鳴らしながら「社会=世間」の注目を集めて、その上で「ブログ=WEB日記」という論理で、そういう危険地帯に巻きこもうとしたわけです。

世間、社会、権力、そしてネット 圏外からのひとこと
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040322#p06

しかしそんな違和感が「「言論」との距離感」程度で済むひとってのは、ある意味、言論ヒエラルキー上位組なのではないかな。たとえば、ARTIFACTさんが度々話題としてる同人系の男女のカテゴライズについて言及。

男性は何らかのコミュニティに所属している自分を確認する欲求が強いために、「自分たち(=モーオタ)」という存在(フィクション)を作りあげ、そのフィクションを維持するために語り続けるのかなーと思いました。
やおいやジャニーズなどの女性のこのテの文化が、誰にでも参照できるようなドキュメントにされないのは、女性に歴史化への欲求が薄いからかなーとも思ったりするんですが、こうやって男女の違いに位置づけるのは安直でしょうか…。

モーオタとジャニオタの違い ARTIFACT
http://artifact-jp.com/mt/archives/200403/morotajaniota.html

女性をひとつのカテゴライズにあらかじめおとしこんだ上に、「自分たち=男性」の中でのコミュニティに分派承認するという認識構造に無自覚なまま、女性コミュニティが見えてこないといっても、それは認識出来ないのは当然なんで。それを立証しようとしないのは、あたかも女性の固有特殊性としちゃうのは、書かれてる通りちとヤバいかも。これに対しては、id:twistedさんがコメントで「多様性を抑圧するような言説を無意識に行うことが共同体的な言説であり、その危険性を指摘」id:twisted:20040315#p2されている。自己吐露不思議系/メンヘル系やおい同人系を狙った「儀礼的無関心」もそうなんだけど、こうしたジェンダーロールを意識しないよう意識しないように、ネットリテラシーの技術&言論は総力を上げているんだけど、結局、自己欲望貫徹という搾取と押付けがある事実主体ヌキに都合のいい物語を進めると、対象者との齟齬ネタはつきないよ。しかし学問=第三者的に語るというのが自明になって、そうすれば客観=メタだという行為そのものがいつも、こうしたことを構造的に見落とす(見落としていい=責任解除という)自動装置になる、ってこともあるんだろーな。
勿論、現実にはジェンダーのみならずもっとさまざまな踏み絵ファクターが潜んでいる。どこの所属機関にも忠誠を誓ってない者そういう自己存在表明をしない者は、それだけで排除のみならず侮蔑対象にさえなる。すなわち「上げて」もらえない。これには日本に於いて「自立した個人」であることのキビシサ、村八分は三輪明宏やフジ子・フェミングなんかがインタビュー等で自己体験をまじえて何度も語られている。

リンク問題に関連して、以下の指摘がなされている。

本当に重要な情報を持つ人々には強いつながりがあるのだという推測がよく聞かれるが、実際には、強いつながりを持つ人々が重要な情報を持っている人の意見を聞いているだけではないか

人気ウェブログは頻繁に「無断引用」――ウェブログ間の情報の流れを解析 Wiaed News
http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20040309206.html

「降りる」も「儀礼的無関心」も要は特権閉鎖空間内での「だよね〜」ゴッコの植民地のひとつとしてのネット・オピニオン=言いたがりの動向を探り束ねる、専門家様の分析ネタ為の観測球ってことっすね。まーそゆモンに乗って遊ぶのか、リファーされて人文ソーシャル・ネットワーク妄想でハイになるのか、ミイラ取りがミイラになっちゃうのか…、というせめぎ合いみたいなトコはあるなぁ。