第三者の不在

id:hizzz:20040322のコメント欄で、 kmiuraさんに教えて頂いたドイツ人の地下鉄例、それに連想して。「痴漢」について、日本/ドイツ/イタリアを比較し「文化的 ・社会的要因が組合わされたものと考えてみるべき」という指摘がなされてる。例が一見特殊かもしれないけど、ジェンダーロールも含めて。

「第三者」が消えてなくなるのは痴漢の被害を受けた女性に対してだけであろうか。 もしかしたら、この「第三者」の不在こそはこ日本社会で色々な現象となって現れる のではないのだろうか。
「不始末」を起こした企業の幹部が土下座をする。この幹部は電車のなかで逃 げ出した痴漢男と同じで、旗色が悪くなったからそうしているだけである。またそれ まで弱かった「被害者グループ」が土下座を要求する。それは彼らが強くなったから である。ということは、どちらも「強いか弱いか」だけのシーソーゲームをしている ことにならないだろうか。

電車のなかのグローバリゼーション(上/下) 伴武澄
http://www.yorozubp.com/0007/000715.htm
http://www.yorozubp.com/0007/000716.htm

だから「言論」が第三者機関としてジャッジを…とはならないのである。なぜならそれは〈個〉を認定しない関係に於いてはそれは直ちに、承認してやる/されたいというシーソーゲーム、恣意的強弱の二者関係に陥るからである。そしてそれ以外はいつも「カンケーナイ」「見て見ぬフリ」「面倒なことはシカト」。これが日本の「第三空間」の実態=「人里離れた「森の中」 」=第三者不在状態そのものっすね。