言葉の暴力

ひきつづきessaさんが、jounoさんとのちょっとした誤配をmyヨタに関連して考えられてる。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040327
ふむふむ。それではそういうラインに沿ってカキコ(記憶)自己点検しまーす。


1.言論ヒエラルキー
知識等の「文化資本」をもつ者がその知識優位でもって他者を誘導/論破したり、カテゴライズしたり、啓蒙という手で人文ソーシャル・ネットワークに繋いだり、ハブにしたりするのは、それを持たない相手にとっては圧迫(@essaさん)であり、それが言論権力行使そのものである。


2.権力の偏在
2chでも、形式化されてる呼応。「オメーもな」コレです。主意返しによりすべての言説はいとも簡単にチャブ台がえしにするという手はナンも「文化資本」がない者にとって負けない為の手段だったりする。
権力というものは特定機関から下々にくだる一方方向なダケではなく「無数の点から出発し、不規則で一定しない諸関係によって成立するゲームのなかで機能する」とパーコ麺ならぬ(←シツコイ)フーコー『知の意志』


3.自己言及
こういうことがアタマにあると、essaさんがお書きになってるように、ひとのフリみて我が身をふりかえる。

私も加害者の立場ではこれには気づけない。自分が弱者になって初めてわかることです。強者の立場にいて気づけないのはしようがないと思います。たぶん、私も強者としてそういう嫌な思いをたくさんの人に与えているのだと思います。

避けられない言葉の暴力 圏外からのひとこと
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040327#p02


4.忖度社会
さて、これからがホンバン(←ナニ?)です。こういうハナシになると「だから配慮を!」ということは声高にいわれ、それが主体ナキ権力として独り歩きする。なによりもまずカタチ=「ルール」を求めカタチを踏襲すること=共有「ルール」にせいをだす。そうすると、そのカタチからハミでることは「誰かにヤがられるかもしれない」という自己規制に関心がいく。「ルール」の咀嚼=「マナー」による身体化。それは自己にも他者にも同様にかかる、半径数メートルの隣組〈村〉の相互監視状態=「マナー」の「ルール」化、「お約束」暗黙の支配。〈村〉構成条件に過剰適応の結果、なかなか発言できなくなる。その同調が進めば進むほど、息苦しい。「大リーグボール養成ギブスのような環境」(@essaさん)


5.承認フィルタリング
ところが、言語能力が高い学問イズムな方々は、特に4をハショる。西洋コンプレックスからか、日本ローカル特性は大抵なかったもしくは明治100年の幻想=無意味にいつのまにかされる輸入モン。ローカライズせずに輸入言説を持ってして共通言語とし、「慮り」過剰適応する「認めて君」たちを自説イズムマトリクスに都合よく巧みに利用なさるが、卓上では整合性とれても、その元々のバランスの悪さ故にいつも日本の現場現状にどーもカミ合わない。自説にハムかうような不届き者は、「ネットはゴミ」「匿名の無責任」とか「ジャナリズムの良心」「言論の自由」はたまた「降りる自由」などと自己言論既得権益を存分につかって排除。しかしその主体責任は、あらかじめ自己責任解除が「自明」の自説言語成立文化の前提論によって幾重にもなされる「お約束」となっている。


6.自己喪失
「和をもって尊しとなす」良い子は「慮り」の末に、「嫌われたくない批判されたくない」自意識過剰故に「わがまま」ととられかねない自己思考/表現を手放さざるを得ない。替わりに、学問イズムや言論ジャーナリズムといった、大勢の認証のついた共通言語をもってして自己言語/表現とし、絶対に失敗することのない「自己実現」の為に積極的に〈村〉成員としてのふるまいを「お勉強」せねばならない。


7.第三者の不在
自己犠牲をデフォルトとした隣組タコツボ連帯はこうして出来上がる。「恣意的強弱の二者関係」原理主義の跋扈と同時に、平場はなくなる。どこかに〈公〉をまる投げし代行して、半径数メートルの安心感をもとめ複数形の〈私〉の戯れで閉じこもり、「ピカッチュウ」と「ピカッピカッチュウ」的パタン化されたルーティンのやり取りに始終して思考停止。
ここに至って言説は権力を融解するどころか、権力/政治/思想的立場関係なく「天皇」=正論と「統帥権」=言説者といったカタチにはまり、問題構造の本質はいつもパンピーには隠蔽される。「儀礼的無関心」という支配構図。しかし半径数メートルの隣組の相互監視状態は、強力な言論=ご神体の影に温存され放置プレイ、〈村〉の裏政治状態。
自分がいない人間には他者もいない。そういう〈村〉=権力絶対セクト関係でコンフリクトが発生すると、「オメーもな」という自己投影の応酬で最後は物理的排除暴力しか手がなくなる。


8.思想より思考
これに立ち向かうには、ぐしゃぐしゃ考えるよか、まずシンプルに自己の言葉を取戻してハナシする(言いまわし方を変えてみる)クセをつけるのがいいのではないかと。そしてその言葉に〈個〉としての(呼応も含めた)責任の範囲を決めそれをあくまでもマイペースで実践していく試行錯誤。失敗しないように同類項にしか通じないジャーゴン学習に血道あげるキツさよりも、「間違ったっていいじゃない」(@フジ子・フェミング)それが真の他者と通じる回路ともなるのでは。自己投企しつつも、しかし、言葉は無論、自己にも他者にも過剰な期待&依存をしない。〈私〉と〈公〉の間のグラデーション、中間領域を広げていくことが自分の可能性になるのではないか。


う〜、エラそーだ。徹頭徹尾とりあえず、なにはなくともエラそーだ、ナニ様なんでしょう、んっとに。「ハナシ半分」にしときましょう。いやしかし、こーゆーことカキコするとすぐ「J回帰」保守とかラベリングされて、終了ってスジなんだよな。ふ〜、ヤレヤレ。
学問をさんざんクサしましたが、むしろ学問の真価は、知識技能ではなくそういう自己の知恵に着地するかどうかということかな〜と。ところがその一番肝心な時に理想主義は助走で体力を使い果たしすんだから、もぉ。