原理主義

また中途半端にワケワカメな返答しようのないヨタをひとのお庭でカキコしてしまったので、ちとフォロー。
id:Ririkaさんが、北田暁大『責任と正義』ISBN:4326601604、「Aという思想的立場をとる人間がいるとして、Aであればこの局面では理論的にはこれこれでこうなってBという態度に帰結するってときに、その人はBを選ばざるを得ない、選ぶべき(それ以外の自由はない)、って言っていいのかなぁ。(ていうか、そういう論旨が納得できないんです)」という根本的疑問を提示された。
これは、引いている実例は違うのだけどid:hizzz:20040322で、議論〜正論という方法論が持つ性質の淘汰志向についてカキコした。正論内容や根拠に問題があるのではなく、「社会が」というよりなによりも議論はその自前の正しさをもってして相手方の論破を目指すという目的があるが、論破が果たされる最良の条件はなによりもその議論を理解する「前提知識や土壌や議論方法」が同一の者なければならない。それは、必然的に自分の「正論」の正負を立証できうるのは、「正論」の純度を高める者=同根同質=同一文化資本共同体に限られてくるという性質を持ってる。そうすると同じことを同じプロセスで考える者同志ならば、出てくる結果も同じという思想的「モラル」と、いうことかと。
それだから、「AならB」という解答を出す条件へ人間を思想が選ぶ(ホントは論者自身が選んでんだけど)ということになる(=主体の客体化)。しかしこれでは最初に「思想」信仰だけあって「思考」がナイ、原理主義=思考停止ってことだもんね。厳密なあまり、極端!で現実バナレ。
そもそも「Aという思想的立場」を選択するかどうか、思想の種類は人文学問内でも色々ある。しかしその「Aという思想」が「B」という帰結しか産まないとしてそれが不自由/不利益なら、べつの思想/文脈を掛け合わせたり「解釈」を変えたりもして「A’思想」とか「C思想」とかを学問はこれまで産みだして来たのじゃあないのかな。それだからこそ、社会学自身が肥大して社会学帝国主義となったりもしたんだし。
id:Ririka:20040419でのid:svnseedsさんのコメントには、もーまったくもってその通り。んなことで当初から「降りる」関連では、「「社会的なるもの」を相対化する言説が社会理論における「社会的なるもの」の肥大=社会学帝国主義を帰結する」という北田本の前提をid:flapjack:20040227さんトコで引用したりもして、リベラル=左派「社会的文脈主義」ということに共感を持つ知のマトリクス=社会学化する社会=社会学的手法で社会を把握したい思想内のハナシで「普遍」ではない、とした。
と、いうことで、「A(=リベラル)という思想的立場をとる人間」=左派的学問知に於ける「義理(思想=正義)と人情(自由)の板挟み」なのかと。