問題の解釈

ワタクシが理解している「問題」ちうのと、特に社会派(社会に物言いするひとという広い意味)を自認なさる方々(左右派閥関係なく)の「問題」ちうのが、どーも別モンであるようだ。なんで御座居ましょーねぇ。「抵抗」といってもよいのかもしれない(シツコイが体制抵抗勢力左右派閥関係なく)。
そゆ方々の唱える抵抗は、自分の外部の解らないというトコが問題なんだと「解らない」ということ自体そのものを理解し対峙するというよりも、解らないトコを享受「しなければならない」という「」の部分に対しての抵抗なんでございますね。解らないというトコを理解(了解)するのと、解らないトコを解らなければならない(享受)という違い。「しなければならない」というのは、自分が解釈行為として選択したあくまでも抽象概念。
しかしそれをドコからか享受されたものとして自己客体化して解釈しているのだけれど。具体的には、迷惑行為に対して「迷惑だからやめろ」と直接対峙しないで、「社会的に見てうんぬんかんぬん……、しなければならない」と、長々始める人々。これって問題の渦中にいる当事者なハズなのに問題点と自分とが向き合うことがなく、いつもかぎりなく傍観者を装った超越者の視点なんだよな。そゆ仕儀はなんだかいつも戸惑う。
だから限りなく客観的で公平な見地だといーたいので。そうかな?このような仕儀は、社会の代理戦争を勝手に被せ、社会を盾に語るオレ様はその勝敗を支配するというゼロサムゲームでしかない。だって「しなければならない」と思っているのはなによりも当事者自身なクセに勝敗は「社会」が決めるなどと主体をタナ上げしてるんだもん。そいぢゃその言う「社会」っていったい?
それも実はそういう個人が一方的に想定している同調仲間内の小「社会」=世間にすぎやしない。当事者同士間にまたがる大文字の「社会」は、呼べど叫べど正負をはっきりだしちゃあくれないから、訴訟でも起こさん限り、あとは野とナレ山とナレ。社会に主体ズラシして客体とした個別具体的責任者不明で、問題ダケが存在してるようなたたずまい。問題をPC(ポリティカル・コレクト)したアタシってのの表現に過ぎないからだ。んな論調は、当事者でない制度外他者=第三者にとっては考察する意義が感じられナイ。
まーどんな概念信念情念諦念観念怨念を持とうが持つまいがそれは個人の勝手であって、自分が解らないトコ迷惑なコトは「ワタクシは不愉快でメーワク→だから、ヤメロ」と(それがワタクシのいう理解/自己容認→対峙)、自分が自覚して不愉快がってればいー。なにもそこで他者に向けて「社会」などという大フロシキを広げて、「社会」全体で殊更に不愉快がる同意を求めたりする必然性は、まったくナイ。
結局、外部があることすら理解しえないのか、はたまた外部との交流を恐れてかで、すべてを内部化(価値の一体化)し幾重にも内包化してないと不安とばかりにこうした過剰な価値観の団結を声高に他者に対して威嚇権威誇示するんだろうね。しかし外向きを語り装おうドコまでいっても内向きなソレって、そもそも社会派?社会不安派?
ま、そうした始めに家族/集団/共同体/連帯アリキといった意識を強く共有してるトコに、いじめやバッシングは起こりやすい。しかし、困ったことに全員がなんらかの関係者(上下強弱遠近の非対象関係)となっているそうした集団内では、視点&解釈は固定しており、制度内の他者は見下していいバッシング対象者となっていることが多い。