人格攻撃

バカだの基地外だのといった罵倒(バッシング)が昨今一部で大はやりなんだけど、そゆ方法論、ワタクシはどーもそれがよくわからない。バカと言った時点で対峙呼応性を全否定する断定の言葉だからなぁ。早々とジョーカーを切ってしまってるようなもん。
そういった言葉は発する個人の感情吐露でしかなく、発言者の内観であるがゆえに、発言者を含めて誰にもその罵倒の論証なんぞ成立はしない。と、いうことは呼応不可能=コミュニケーションブレイクダウンということになる。だもんで、そゆアジテーションやファイトは、のめり込むダケ無駄だと想うんだけど。それを論証可能だとして人格攻撃を正当化する内容に走ると、往々にして点の極論に執着しトータルな整合性を失い、行き着くところは妄想にしかならないぢゃないだろうか。
そういう論証不可能で揺れ動く感情を根拠にせざるを得なくなった時点で、それは発言者の言葉(思考)の表現の限界を現す、ひとつの破綻。なぜなら、その先には何も、本当にナニひとつ実るものはないから。他者に検証の不可能なものや共感を勝ちえないものは、発言者個人の内観を越えられないからだ。その効果は、自分と罵倒対象者が「違う」ということだけしか論証できやしないのである。んで、相違点論拠をバカだの基地外だのに求めてるトコが呼応不可能であり、それは単なる「独白」という。確かにセカイの中心でおもいっきりヴァァ〜カ!って、天にツバする超越者になるのはさぞかし爽快だろうなぁ。しかし、その瞬時の感情のおもむくままに無責任な一貫性ナキ検証論点を示せない発言なんざぁ、そこでとっくに「終わってる」んであり、議論/論争でさえない。だから往々にしてあとはいかにそのバカであることの内容を厳密に言うか跳ね返すかの矮小論争っきゃのこっていない。にもかかわらず他者の呼応ナキそれをあくまでも押し通すのは、なんだろねぇ。不毛だし消耗戦だし…ひょっとして暇つぶしなのかな?
ターゲットを罵倒できる程自分は特別だといってる割に、なされる発言が創造性のカケラもない陳腐な罵倒言語に収斂されて終了してしまうというその薄っぺらい事実。それはリテラシー、表現の幅を持たないがゆえに、そういうカタチ=断定でしか他者にコミットすることが出来ず、そうした表面だけのインパクトの強い罵倒言葉を使わざるをえない方法論の停滞。呼応可能な論理的整合性もなく、なりふりかまわない威圧言動で自己主張容認をせまり先にナニもなくとも兎に角自己プレゼンスさえ立てばいいのかしらん、とか。
罵倒までいかなくとも、「反感」「嫌悪」という感情絶対主義のようなかんじで脊髄反射的に泡立ってるひとは結構みかける。
いいたいコトいえないのがくるしいとして言葉を持たない弱者の権利として罵倒言語で感情吐露して自己が解放されるという夢は、現実的には成立したためしはいまだかってないのでは?発話するとその吐露した言葉、そうして現存させてしまった負に引きずられて自分で処理できなくてかえって相対すべき世界の可能性を閉ざして袋小路へ(バカにバカいうバカ=バカ承認を対象者にせまるが、そのバカが正である程、その対象者は大抵バカであることを絶対に認めないのでバカ説の呼応はないので自説の帰結もない。従ってそこで自説を確認する為に対象者依存せざるをえないという主客逆転状態となる)、言葉を持たない弱者程、そうした言葉に安易に飛び付いて自分を縛っているってことが往々にしてないだろうか。だからといって他者にその感情を引き取ってもらおうとして更に誹謗中傷を言い立てても、それは先に書いたとおり独白=内観=感情は最初から呼応不可能なのである。「ああ、そうですか」って流すしかナイ。一見とっかかりよさそうでも人格攻撃に拠る罵倒は、実はひどくコストがかかるリスキーなものなのである。
だからそういった発言を俗に「便所の落書き」といい、しのび嗤いと共に結局は社会的に抹殺されていくナニひとつ実るものはない結果に。そういうトコから脱出するのは「内省力」という自分に向かう勇気がいる。 いいたい言葉を自分の言葉で探して選んでこしらえていくってことになる。それは、なにもお高尚な学術/理論語=権威を身にまとうことでは決してナイ。