自己卑下

とりあえず謙っとけばってことで「ワタシってバカだから」というボケだか媚だかの煙幕方法がある。
「お前バカ」と「ワタシってバカだから」。威圧と謙譲に見えて正反対のようであるが、実は同質の表現だったりする。ナニか愚弄する者を作ってその反動に拠る特権的自己承認を求めている点では、一緒だからね。「お前バカ」は文字どおりそれがストレートにでている単純ケース。それに比べて「ワタシってバカだから」は、やや手が込んでいる。
「バカなワタシ」=客体と、そう「表現している本当のワタシ」=主体のふたつに自己を分断しているからである。
で「バカなワタシ」という評価は相対的なモノであると予め知っているからこそ、他者の「そんなバカぢゃないよ」という返答をお約束にしてるので平気で謙れるのである。そうして「バカなワタシ」を愚弄すればする程に、謙虚で特権的ワタシが自己の奥底でメラメラと燃え上がる。それは「お前バカ」と他者を愚弄すればする程に、威圧誇示の特権自己快感にひたってる様とまったく変りなかったりもするんだよなぁ。周りを貶めて自己を立たせる為に、他者を「使う」か自分を「使う」かしてるダケの違いだったりするものね。
どっちにしても結局は自己評価があまりにも低い為問題意識が自己内実に向かうことなく、むしろそのナニもないワタシの暗黒面を恐れるあまりにそれから気をそらそうとして、安易に他者の癒し(=まるごと承認)を自他の卑しで強要するというループにハマり、いつまでも他者承認欲求から自由になれない他者につながれた奴隷なワタシで在り続けるんだけどね。
あ、そうそう、先に他者に卑しめられたからその他者を罵倒言動するのも、同じループに嵌ったことになっちゃう。
しかし人格なんぞそもそもが無定形で相対的なものであり、絶対評価とは決してなりえない不安定さから、いつもいつも自己を成り立たせる為には「お前バカ」「ワタシってバカだから」と強固に言い続けなければならない。
しかし人格という価値観を第一にかかげようとするならば、その人格という価値観でまず先端切って落とされるのは、そう主張する当人格であるのが自己検証、作用反作用という自然のブーメランとして発言者に刺さってくる。いつもそんな自己は、まともな他者承認を得らたためしがない。だからそう言えば言う程に自己は承認されない不安、行き場のなさにさいなまれ、その未承認不安から愚弄してたハズが愚弄されてる気分に、いとも簡単に自己が主客逆転してしまう。自らの発話の罠に自分を縛りつけ身動きがとれなくなってくるのである。
「お前バカ」「ワタシってバカだから」も「そう思ったワタシ」という表現にとどまり広がりなく、他者からすりゃあ、そんな無意味な特権的ワタシを全人格的に認めろつったって、だからナニ?ハイハイハイ、いつまでもそんなバカいって貧すれば鈍すで自己消尽してないで、と、小一時間。。。