資質と信頼

昨今、政治家からワイドショーからネット迄、なにかというと人格=「資質を問う」のがハヤリのようだ。資質とは、生まれつきの性質や才能、人格のことをいう。
ワタクシは、日常を含めてひとつのシゴト=結果を評価する条件として、これはいっさい感知しない。
評価というのは、役割なら役割シゴトそのものの出来不出来、言動なら放たれた現された言動ノミに対してのみ評価できるのであり、その出来不出来と生まれつきの性質や才能の関連なぞつくはずもない。評価に当たって明確にしておかなければならないのは、そのシゴトはどういう目標が両者の合意上立ててあって、どのくらい達成されたかどうなのかということである。
で、大抵評価側の達成予想と、対象者のそれとはズレるんだけどね。評価にズレが生じたとて、最初からそうしたシゴト目標の相互直接関係(受発注)がない間柄なら、どんな評価したとて決定にはならず、所詮それは「見解の相違」以上でも以下でもない同等のものとなる。その瞬間瞬間の出来不出来の積み重ねが、発注側から見て「信頼」や「実績」というカタチになるのであり、だから「信頼」や「実績」は、天然の「資質」では毛頭ないし、シゴト=コミュニケーションをしないひとには生まれてこないのである。(シツコイよーだが、ここでいってるシゴトとは賃労働ダケを示してるんぢゃなくって「能動」全般を含む)
「生まれつき」というの本人の努力でいかんともしがたい不利な条件下に置かれているひとであっても、いいシゴトをする時もあるし、他者のうらやむような条件のおぜん立てがそろっていながら、まったく評価に値しないときもある。単に、いつくかのシゴトの不出来があったとて、ただそれはそのジゴトに対してその時向いてないだけで、その能力のナサが「生まれつき」かどうかまで遡って他者の人生を断定づけるのは傲慢というものだ。大体、自分の親兄弟など身内の生まれつきの性質や才能だって、把握なんかできてやしないのに、どうやって他者の生まれつきの性質や才能を把握できるというのだろう。
そうやって「資質」を言い立てる根拠は「生まれつき」をアダコダ断定するのは差別の公式でその元になる偏見、それはイメージなんだけどね。さもなくば自分の手で人生を切り開くという可能性を一切否定する、運命決定論者か。。。
いやそんな自分には偏見や差別はないんだ単なる分類上の区別だとするならば、「資質」を問うた側に見下したような権力威圧が存在していること自体既に矛盾である。結局これは、そういう検証不能なイメージとしての「資質」位しか問えない。区別立てしたい相手と自分のその差はそんなところにしかナイ、我もまた同質ってことにすぎないぢゃん。
ま、イメージを根拠とすれば、特定個人の実際言動/実績をはなれて、いっくらでも評価側の自分に都合のいいイメージ(=おもいつくまま/気のむくまま)ふくらまして、言ってまわってるにすぎないんだけどね。 そんな「資質を問う」のに血道をあげてるひとは、とどのつまり、これは相手の資質を問うでいるんぢゃあなくって、自分のイメージを問われていることにもなるんだよね。
信頼というのも、そういう自己に対する作用反作用の呼応性=他者からの問いかけをどのくらい自分の余地として予め担保してあるか(腹くくってるか)否かってことだったりするんぢゃないだろうか。
だから、尚更、他者への人格批判の表出というのはまったくもって無意味と想うんだよね。