その先へ

自分は、いつもどこからか無能扱いされ息苦しく生きづらい。こんな状況をなんとか打破しようとして、押し付けられた無能さを衝動的に押し戻そうとする。それが「お前バカ」。そして「ワタシってバカだから」。自分がジャッジし否定する者(批判対象)を見付けることによって、排他されつづける自分からのがれようとする必至の方法論である。
「お前バカ」「ワタシってバカだから」というのが正としてもそれは突然ある日ふってわきおこった「バカ」ではなく、自分が解釈した事象の前提条件(客体)である。それなのに、他者を卑下しても卑下されたくないと特権意識でいたいならば、当人は主張する自分(主体)にほうかむりをし論法成立の為に事象をムリヤリ透視化させ、高見の見物=正当性を装った永遠のデグノボー(客体)でいるしかなく、常に否定しつづける者(主体)を必要とし、否定した筈のその者に依存しなければならない隷属関係に陥る。特権的自分が成り立つ為には、批判される主体でなく批判する客体でいるしかない。
しかしそうすると主体的になにかをするという手段を、自分で封じて可能性を絶ってしまう。そうした否定という名の許の肯定というねじれは、否定対象に依存度を高めますます息苦しくなり、ますます先ボソリしていく状態は、容易にコジレを産む。最終的に特権的支配をしようとする側にとってそれは、ますます好都合である。なにしろ自ら手を汚さずとも、騙されただのハメられただのと勝手にお手上げなってくれて、主体を捨てて自滅し隷属している状態であるからね。そういう個々の主体の破壊行動が現存してる自己能力を放棄させられて弱体化し、かわりに保護という美名の許の全体主義的一極支配が確実に忍び寄る。
言葉の上で高見にたって(メタ概念)全てを敵-味方にぶった切るという善悪二元論は、世界を支配できて、スカっとさわやか、ちょー明快。その手ごたえって、差別(無視)されてきた不安な自我を支える運動の快楽と直結するからね。その運動の徹底がされればされるほどに、血肉を奪い抑圧になりあらゆる人間性を排除する。自己の動揺は相手の動力源となり、相手の力がこちらに勝れば、相手に引き込まれ利用され、逆に、相手が弱ければ、自身の生みだす妄想に振回され気にくわない、不気味、不愉快さばかりまき散らして…
確かに、自己主体ダケで諍いが起こる訳ではない。しかし自分の存在価値を認識する為に「○○のせい、××のせいで…」といつもいつも不可抗力のようにいつもなにかを陥れなければ自分が成り立たないというのは、客体化に主体依存してるといえよう。それは自分の意義を自分ですら瑣末に扱っているのと同義ではないかな。
そんなにナニもないというのか。そんなに絶望しかないというのか。例えば、個人の力は5%「しかナイ」のではなく、5%「もアル」となんで肯定出来ないのか。なにもやらないでマイナスになってしまうのなら、5%だっていーぢゃないか。 95%のダメで舞い上がって絶望してないで、冷静に、出来ることからすこしずつやってきゃあいいんだから。その5%だって、今現在想定してるダケのことであって固定されたモンではないではないか。個々の必然の5%の財産を、自分の意義をまず自分が認めないで、自分で排除してしまって、それで客観状況という前提に終始してても、ナニが始まるというのだろうか。
弱い自分でなくて、そのように弱くあらねばならなくなってしまった自分のシバリを解くために、「出来ない」前提議論内の安易な帰結ぢゃなく「出来る」というわずかでも可能性を見いだす現状肯定は、なによりも、頭を上げ正面を見据え現実への確実な第一歩を踏み出す為に必須だとおもうんだけどね。
大抵リテラシー不足が原因で起きる諍いを、そうした原因の詳細な検討もなく、リテラシーの訓練にもコストをかけずにてっとり早く「排除」しようとするとその欠落をロマン(理念=主観的価値)でなんとか塗りこめようして無責任なイデオロギーの横行による粗暴/傲慢状態を自ら引き起こす。夢=ロマンは巌のようなリアリズムの裏打ちがあって、始めて自由に羽ばたけるものなんぢゃないかな〜。
タダより怖いものはナシ。目先のコストをケチったことでのツケは大きい。もっとも、世間のあらゆるそうした差異の僅差なところから一番ハク&うだつの軋轢戦争が勃発しよけいな危険なエネルギーをガスぬきしてセクト戦の消耗の果てに老獪な現勢力が繰出す甘い、あまぁ〜いコーティングの延命政策に組み込まれる様は、お高尚な言説から便所の落書きまでナニをどういおうとも、お便利と引き換えの「淘汰されるべきものは淘汰すべし」の厳然とした支配体制シナリオに嬉々として身を投出しているにほかならない。
自己執着のあまり、そんなトホホな構造の奴隷になって、結局、自らの感情の搾取で疲弊しまくっても、第一、面白くも楽しくもなんともないじゃん。もう、自己フォローも追っ付かない、循環無き硬直した欲望の右肩あがり状態は、いかがなものでしょう。そういう自我のフロシキの折畳み方に、インテリげんちゃんズこそ知恵を絞っていきたいですわ。理念だか倫理だか道徳だか知らないけれど、それで「不純」とやらを片っ端から排除して、骨太だったハズの折角の教義意義自体も先細りに始終して大した成果もでずに、自ら消耗っすか。。。んなアタリをいつまでもいつまでもアデクションしてぐるぐるしてないで、「了解」とかの段階へ、そして「創造」に向かう時期なんでないの?