伝達プロセス

伝達率自体については、id:hizzz:20040310#p2でカキコしたんだけど、さてそれでは伝達率自体を上げようと厳密な議論にしようとすると、「正論」の跋扈はよのなかを狭くする。id:hizzz:20040424 それは何故か?「説得される」という政治性がそこにベッたりとはりついてる分、正論なら正論で自己設定コマンドラインなセカイで完璧に完結してるほどに「支配権力」が発動されて〈受け手〉の入る余地がないばかりか逆に実存全体を脅かし、感情を逆なでするのである。で、大抵「説得」すればする程、それは一時的な効力しかもたない。「反感」感情が高まるからである。
そんな「正しさ」は、数値や文章上では達成しえても、人間関係ではそれは通じない。通じないのを「民度が低い」だの「教養がナイ」だのと切って捨てるのもそれは論者の勝手であるが、結局は通じない論を延々と論拠だててる方のタコツボな徒労におわる。他者がすべからく自分の鏡像でもないかぎり、この方法論を共有する者を増やすことは、まずもって不可能である。
ぢゃ、どーするか?伝達とはどういう行為かというのをまずよく考えなくてはならない。そして世の中の伝達方法は「正論」をガリガリプロパガンダするのみであろうか?大量伝達といえば、広告は「説得」を目的として作られているであろうか?確かにテレショッピングは「説得商法」であるが、すべての広告宣伝がそうではあるまい。なぜ「正論主張」しないのか?それは、正論説得は、TV等の平場においては対費用効果がなく販促につながらないからである。逆に対面販売やセミナー等の囲い込みに於いて説得販売は威力を発揮する。後で「反感」があったとしても、そこで契約成立してしまえば、それでいいからである。id:hizzz:20040210
「説得」ではなく「納得」を目指す方が、伝達率は遥によい。「説得」というのは認知に於いてはムリヤリ支配客体化されることだが、「納得」というのはそこに主体的行為がかかわることになる。「共感」というのも、「説得」されて沸き起こる感情ではなく、「納得」して持ちうるものである。だから「共感」は自己身体化しやすいんで。まあ、こずるい手としては、「納得」したように見せ掛けて「説得」するということもあるけどね。
伝達にいかなるロジックを駆使しようとも「説得」というのは支配プロセスであり、「納得」というのは関係性プロセスで、このふたつは似て非なるものなんではないだろうか。そして、そのロジックと媒体の使い方を間違えて自論立証=一直線なコマンドラインの為に現実を矮小化&オミットされ、その論成立故に前提とした問題解決にならない論を「正論」として声高に立てる方が、御高説を説く「識者」の中に結構いらっしゃる(苦笑)。なんだかなー。