〈受け手〉と〈送り手〉

oxyfunkさんが、「私は人間が嫌いだ。」そういう人がビデオジャーナリストに向いているという例でコミュニケーション問題を語られてる。

弱者への想いが「私は人間が好きだから」と出逢った時、僕はいったい何を観ることになるのだろう。<送り手>の善意によって見せたいところだけを無邪気に記録した、とても恣意的なものになってしまわないか。

凸と凹の間
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20040605

ビデオというメディアのハナシなので、〈送り手〉→〈受け手〉という一方的な強弱関係が明白ではあるのだけれど。善意=弱者の代弁を気取って泡立つ最近のメディアは、あまりにもこれを忘れているんだよね。リアルな映像が映し出されることで、〈受け手〉には(〈送り手〉さえも)フレーミングという主体=恣意的選択が背後に隠れちゃいがちで、かくしてそれが神の視点のごとく「真実の映像」として放映されたりして。
メディアに限らず、弱者への想い、共感は、ひとの姿勢としてとても美しいのだけど、それはしばしばひとの判断を狂わせる。そういった感覚的印象をそのまま身体化して、弱者という恣意的に選択&ラベリングした他者をかりた「特権的な善意」を客体的に発動してる(=〈送り手〉になる)ということに、〈送り手〉は無自覚になりやすい。「善意」や「共感」という欲望で自分の耳やその他の感覚がふさがれてないか、常に注意して開けておく必要があるのかもしれないな。