補)バトルもどき

「片方は議論、片方は自己セカイ構築」という行為を羅列すれば、いかにも「議論」行為が正しくて、「自己セカイ主張」行為が間違ってるとおもわれるかもしれない。しかしそういうジャッジの仕方自体、そこもまたひとつの価値観=自己セカイによって自明視されてるものであるという、客観的認識を持っていないと相互関係の齟齬はつきない。
解りやすさ/普遍をめざし「論点を明確にする」議論というものの便利な機能が「〈個〉別意見」に及ぼす影響に関して、大抵のひとはとかく無関心になりがちだ。そのめざすところの「普遍」基準自体が、もろもろの観点からの選択された暫定解であるにもかかわらず、その恣意的基準に於いてそれ以外の可能性を否定するのが、普遍的妥当であるとジャッジする強弱関係になるのである。要はその強弱をめぐる立ち位置バトルっすね。
「ちょっとした意見」が、議論者にかかれば議論者の予め持っている自説ライン上の正/負の2極のどちらかに強制的に位置決めされてマナ板の鯉状態、その上で自説の都合よく料理される。時には叩かれる。そりゃ、たまったモンでない。コンフリクトが起きない訳がない。
何度も例を引いてるけど、イラク人質事件に対する「ちょっとした意見」が、政府/反体制の論者達の自説にいいようにさんざん利用されてますな。
すべからく放たれる語彙は整合性取れナニひとつ間違っていなくても、議論手法が他者に向かって開かれてナイことには、関係性もクソもない。方法論的レトリックだけ肥大させることは、正論を建前として議論手法を取っていようとも、やはりその作為目標は「自己存在プレゼンス?」ってことには、変わりないかなーと。