規格外

マンションから幼児を投げた高田馬場の中2が元々「問題児」レッテルをはられてたことで、またなにやらきなくさいことが声高にいわれている。
昨今、「正義」とか「モラル」という正しさについての関心が強くなればなる程、その唯一の正しさから外れることへの非難が沸騰する。前回「作られるDQNid:hizzz:20040624とカキコしたが、犯罪は増えているのではなくて、マージナルなトコロにある行為が非容認という判断を下す中で、作られる。
id:beach_harapekoさんが、大人に拠る「子供の消費化」ということを指摘され、そしてその延長戦上としての「少年法改正論」でありその暴力を批判されている。

子供はそもそも凶悪で小狡くて、しかも馬鹿なんです。だから、粗暴で短絡的な事件を起こす。でもやっぱり、彼らは子供なんです。
少年法を改正しようという意見の裏側には、子供のそういう面を許容できない、オトナ社会の不寛容を感じます。規格外の子供は、子供の枠組みから排除しようといういやなかんじ。

空腹海岸海の家 実行準備委員会(アジト)
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20040612

子供でもなんでも他者というのが持つ自分(達)とは違うふるまい=差異を、自分(達)の自明とする文化価値基準でラベリングし、そのラベリング位置=評価でもって今度はその他者そのもの全人格をジャッジし、序列結晶化してしまおうとする欲望。そして、自分(達)とは違うことは、おかしい=劣位と帰結する思考方法、それは差別でしかない。
いや自分は、子供のことを一心に想ってる。愛してもいる。そういう認識であっても、実は「自分の理想(=都合のいい)の良い子」を正として欲望しているということがないか。その裏かえしの規格外の排除と、規格外キャラ欲情(=戦闘美少女)による規格化。そのいずれにも当事者である生身の子供は参画出来えず、ひたすら表象ネタとして他者消費されるダケ。そんな状態を敏感に察知した当事者が、それをマネて他者消費しつつも自己を守ろうとして他者排除に走るのは防衛本能なのかもしれない。
子供の正しさ、それは愛玩として、愛玩対象としての子供キャラの商品化は、ロリやペドといったマニアックなところから広がって、昨今モー娘から100円化粧品からとどまるトコがない。無論、ロリやペドといった性的趣向/ファンタジー自体を断罪しているのではない。それを現実の子供に具体投影しだしたことは問題なのである。男性中心で発展してきたネットに於いても、女性を引きずり込む工夫が様々なされてきた。殊更の女性性強調による女王&蟻軍団という一極集中現象でコミュニティ拡大が図られもした。ネット・アイドルも作られた。それを模倣してネカマというトランスも起こってきた。それはさらに愛玩少女へと欲望は深化追求され、身体性を排除したネット空間に於いて消費者として成人(大きいおともだち)と、商品化児童(大人びた子供)が、役割固定されファンタジーはさらに回転しだす。

佐藤直樹『大人の責任、子どもの責任―刑事責任の現象学』では、そもそも西欧的自己/主体というのは存在せず阿部謹也的「世間」があるダケの世界では、共同幻想=商品世界と自己幻想=欲望との境界が曖昧であり、個人も家族も学校もそうしたシステムに開かれていて無防備に解体される(中世化)。自由な意志決定をなしうる理性的人間像に基づく近代刑法では、動機の了解可能性をもってして理性=責任能力にあてられる。個人に〈責任〉を負わせる為には、「人でなし」や「人非人」であってはならず、その該当者が理性ある人間でなければならないという致命的矛盾をはらんでいる。「年相応の人間的成長を遂げていない精神的未熟さ」は、責任非難を増大させていくが、少年と成人ではその刑法価値「理性」が逆のベクトルを持つ。少年や「精神障害者」では「未熟」であればある程、保護されるべき当人〈責任〉は軽くなり、むしろ両親をはじめとする環境〈責任〉となった。
アリエス『子供の誕生』で見られるように近代以降、良くも悪くも特別視されてきた子供が、言語(書物)中心から音声(映像)中心文化になってきた現代、すべてが商品化する高度消費社会システムの中では、発話行動/消費者という点に於いては大人/子供の区別がなくなり、もう一度中世的「小さな大人」として扱われつつあると指摘する。さまざまな「わけのわからない」事件=了解不可能では、その矛盾がふきだし、社会の側で加害行為者内面も含めた「動機」が作られる可罰化加工過程を、話題になった事例で著者は読み解といていく。

青少年 -なぜ大人になりたくないのか?-
http://www.culturestudies.com/youth/youth01.html