「正しい恋愛」

モテることと、恋愛することは似て異なるものだ。モテは客体的行為に見えるのに比べて、恋愛は主体的側面が強い。
客体だからといってあなたまかせで「モテない」ってぼやいてるダケなひとは、そもそもコミュニケーションを繋げようって発想や自発的意志が希薄で、ぼーっと傍観的に異性を眺めてるダケに始終してることが多いみたい。特別な技量や容姿が完備してる以外のひとで、モテる秘訣はマメさであろう。(勿論ストーカーではない)へたな鉄砲も数うちゃ当たるマメさというのが「呼応可能性」を繋げてくコミュニケーションだったりする。そゆ意味で一通りのみだしなみやふるまいとかも、応対(コミュニケーション)に入る。みだしなみやふるまいに構わないということは、相対面には興味ない、独自文化圏をボディ・ランゲージ主張してることになるから、ターゲット範囲を狭めてるということになりかねない。これはモテたくないひとにとっては、確実な方法である。
モテたい恋愛したいと切に願い「モテ/恋愛論」を語るひとのなかには、自分は変わらずに、ある日突然、理想の相手が自分の素晴らしさに気づいてくれるという、特別なアタシストーリィが現実よりも主体的独善的にある場合が多い。昔は、そゆ「白馬の王子様」を待つのは女性と相場が決まってたんだけど、どーも昨今「白馬の王女様」を待つ男性も多々見かける。いや、しかし実は、ひょっとして、女性よりも多いんぢゃあないのか。昔は、女性が白馬を降りて男性の理想・意向に三つ指ついて必死に合わせて守立てたんだもんな。>尽くすケナゲで高貴なお嬢様=〈乙女〉
兎に角、それじゃあ同類項同志、王子と王女でロワイヤルでラグジュアリィでデリシャスな夢を紡げばとは思うんだけど、残念ながら、昨今は双方とも取り持つ配下もいない「待つわ」ヒッキー状態だから、いかんせん、出会わない、と。出会ってても、白馬でドコ行くか方角定まってないから、出合い頭のガチンコで終了、と。昨今は、特別なアタシ=Only Oneで、ロワイヤルでラグジュアリィでデリシャスな自分に忙しーから、他人のことなんかかまってらんない、と。実はこゆひとたちが待っているのは「特別なアタシ」であって、異性=他者ぢゃない。「特別なアタシ」そんなの待っててもムリだ、ちゅーの。(無論、それはなんとなくでも意識されてるから、相手に合わせるべく変化をとげた電車男に夢を託してしまう)
んな中で、モテるには承認権を他者に振りまく贈与立場に行くことに気づいた目端のきく者は、あたかも承認/贈与を振りまいているかのごとく振る舞う王様&ハーレムを演出しだすんだけど、ちょっと引いて見てると、特別なアタシ=Only Oneを振りまいてる張りぼてなオレ様でしかないイタイ露出が殆どだったりする(苦笑)。
モテ論や電車男レスを見ててすごく気になるのは、「正しい恋愛」ってカタチがあるように「恋愛」そのものカタチに幻想をいだいて、現実の自分と相手をガチガチに固定しすぎてその他を排除しているようなところだ。ケースバイケースとか臨機応変とかって呼応=関係性の内実がなくて、そこからバズれることへの非容認非寛容な厳格さを、自他に求めて、息苦しくして可能性を狭めちゃってるような感じがする。で、電車男レスもそのようなラインでとにかく感想は「感動!」でなくてはならないという暗黙の了解が「正しい」とばかり感情強調する。そしてその次は、そこまで集団で手前勝手に高められた「正しさ」「女神」の貶めに移るのか。祝祭のハテの王殺し。ワイドショーと同じ構図だな。まあ、そういう出る杭は打つ経過があって始めて、「正しい恋愛」の為に自己は「考えかたを変えなくていい」とモテない集団に埋没依存して安心できる効果を選択するんだろうなぁ。
実際の関係性は、最初にカキコした属性名称ひとつとっても、各人各様だったりする。10%のちょこっとラヴでOKな人もいるし、200%の全力投球愛でないと満足しないひともいるだがねー。実際の関係性以前に「正しさ」という抽象的モラルへの服従を求めるのはどーかとおもうだよ。他者=相手がナニ考えてどういう行動してるか解らなくって不安で、その拠り所としてそういう絶対であるかのような基準値にすがる気持ちは、そりゃー理解出来る。しかしそれは、相手にとっては、関係性/相手存在無視の不実な行為であるという解釈も成立つ。と、いうことで、相互関係性に「絶対」はない。「正しさ」というのなら、あくまでもそれは当事者間の約束事ってことなのではないだろうか。勿論、当事者二人で「正しい恋愛」幻想を育むという、修身の教科書のやうな関係性も、ファンタジーとしては有りである。
例えば、2股3股を仕掛けそれに揺らぐ相手に対する仕置きを加える*1TV人気番組『ロンドンハーツ』の、公然とした他者承認をもらわなければ気が済まないような、みせかけの「正しさ=本音」や、恋愛の優先順位/序列を強制ジャッジする「はしご」問題のクローズアップが、最初にカキコした名称論争でも関係性の営みの方法論として共有化してるように見える。そこに出てくる若者はモテない集団とは違って、感情の赴くままに恋愛を好き勝手に謳歌してるようでいて、実はその幾重にも公認/承認がついたべたべたな「正しさ」へ主体を依存してるようでイヤ〜ンな気分になるのは、ワタクシだけかな。
いや、それだけ、自己閉塞し、かつ自己不安=不信で、感情に責任もてない為「対峙」関係が営めないってことなのか。。。

*1:最近そのコーナーは少なくなった模様