科学=政治

「文化=政治」イデオロギーに拠る社会学帝国主義は、さんざんカキコしてきたので省略。戦前、科学=政治とガッチリ結びつき倫理化したのは、「進化論」だ。
自然淘汰&生存競争&適者生存等が、「科学理論万能」として、西欧近代化に対抗するイデオロギー=支配の論理として人間社会に取り入れられた。それは「万世一系」/「社会科学論理思想」は普遍の真理=天理として国粋主義自由民権運動、両方の自説の正当性根拠となる。元々ひとつの実証考察としての「進化論」が、ダーウィニズムとしてまるごと「理論崇拝」@丸山真男された。
「和魂洋才」という主客の在り方で、床の間の掛け軸をとっかえるように西欧知はひとつの技術として自己の周辺にとりいれられる。id:hizzz:20040520#p2のアタマのエピソードは、こうした知識=技術の把握の齟齬が最大限に出ている例ではなかろうか。国粋主義の方はダメだしをくらったが、天皇制から切離されたそういう構造「科学」イデオロギー化は、戦後国策として政治産業化し推進力となる。
プロセスよりなによりも、とにかくカタチ第一。これは、「戦前の悪しき偏向」といって片付けられることではなく、今日まで続いてるよーな慣習だとおもう。しかし「社会の森羅万象」を把握する手法が、人類普遍のメタ社会学帝国主義かタコ唾かってなっちゃって、ソコに突っ込み入れる「社会学」って、どーも、なさげなんだよねー。これは多分、戦後民主主義が、〈個〉〈公〉というものを曖昧にし続けることで、敗戦の負をスルーしようとしたのと関係あるのかもしれない。
その科学万能主義/進歩思想に科学者が距離を置き、トライ&エラーの実証を検討し、より精度を高めるべく失敗学なんかもデータベース化されてきてはいる。「科学」の側も、高木仁三郎氏のようにハイ・コンテキスト化しまくった議論をひとつひとつ丁寧に平場に投掛けていくという、科学=社会な試みというのはまだまだ少数でしかないし、オカルトやゲーム脳のような疑似科学ばかり跋扈し、こんなにいろんな分野の「解説者」がうじゃうじゃいる中で科学ジャーナリズム市場が成立たないのは、それこそ科学の持つ専門性、ハイ・コンテキスト性からなんだろうし、これは科学に限らないが、学会世間しか関心がなくて(むしろ、そのパンピーとの断絶性がステータス/優越感になってたりもして?)専門言語以外の展開方法論が殆ど考慮されないからだろう。