倫理的価値

それというのも日本に於いて知識=才というものは、大抵個人思考の大成でなく「(和)魂洋才」という自己外形思想=カタチでしかないからでは。というのも、学問に大きな影響を与えているような気がする。てゆーか、「学問」が思考する手段=プロトコルではなく勉強する目的=イズム=規範となってるのがデフォルトで、御都合主義的帰結でおかしくなっちゃうトコが多々あるのかも。
知識が外形思想=カタチでしかないなら、それを制御するなんらかの枠が必要になる。そりゃ「倫理学」とやらの出番なんだけど、困ったことに学習者にとっては「倫理学」だって学問のひとつであれば、自己外形思想のひとつってことになる。そうすっと倫理学の倫理みたいな、トートロジーのドツボになるんぢゃあないのかな。
したから、「倫理主体」的なものを外にでっちあげたくなるのかな?戦前はそれが天皇だったりしたんだけど。「(和)魂洋才」とカキコしたけど、問題は「魂」=主体の在り方。戦前は(和)のトコロに天皇〈無垢〉がすわってたんぢゃないかな。で、今はなにもない。西欧倫理的には〈個〉が主体として、外知識と対話してその中で実証やら検証やらを責任主体として執り行ってきて、それが「仮説」にまとまっていったんだろうけど。ところがその主体は必ずドッカいって「説」だけが残る。で主張主体を離れた「説」はひとつの学問知(=規範)として、学会/共同体/政界/論壇等の世間の島宇宙ごとで棲み分けて生息してるのでは。>タコ壺倫理慣習
んで、きもちのわるい理由@id:svnseeds:20040630#p1なんだけど、そんなこんなで「世間」の立ち位置を利用しつつ「倫理主体」としての「科学」に妙なカモフラージュして自己客体化して「説」を立てるのが、疑似科学や似非相対主義なんじゃないのかな。で、んなのでセンセーショナルなのが、たまぁ〜にパンピーの目にふれることになる。>「日本の知識人問題」


科学と疑似科学の判定基準
高橋昌一郎『科学哲学のすすめ』
http://atom11.phys.ocha.ac.jp/front/books/books17.html