習慣

3番目にカキコしたようなアタシさがしなひとが、山のような自己分析判断や、自助グループセミナーや勉強会に走ったり、こうした「知識人」権威に救済を求める場合は多い。
あくまでもワタクシの観察だけど、それで目的を達成しているひとというのにおめにかからない。なぜなら、完璧にそれ通りに実行している場合はないからだ。なぜかといえば、外部依託した時点で、自己目的がかわってるケースが多いからである。「自分を変える」という目的が、変えたい自分はそのままに「変わった自分を見付ける行為」ということに変化してるのである。数週間で他者がひとを変えるなんてことは、無理である。まー、大抵のセミナーのからくりを見ても、そゆ目的のすり替えを巧妙におこなっているのが常である(変わったように見せる=演出された自己を提示する)。「ポジティヴ・シンキング」的なカタチで行為を奨励して、行為帰結=想像の理想系をひたすら思い描かせるが、その為の個別具体的な方法論のトライ&エラーには平面的にしかふれない(集団だからそんなの無理なんだけどね)。だから、セミナーの熱狂という一過性がすぎれば、想像注入された「変わった自分」なるものも消滅して、また次の熱狂依託に走らざるをえない。
想像するダケで世の中が変わる(=ジョン・レノン「イマジン」)というのは、アンチに疲れたXジェネレーションの70年代ピッピー→ニューエイジの自己変革方法論であって、ドラッグ等のトランスによるハイとは一見別にみえる勝ち組ヤッピーのトラパやコーチングもその流れを継承してるものだったりする。なんだかなー。
とまれ自己の「いってることと、やってること」の齟齬を認識しないかぎりは、どんな精密な理論を解読し自己を憑依させようとも、「理解」はおろか現状把握さえ失敗する。理論は実行されないかぎり、単なる言葉の羅列=表象でしかないからである。
しかし、そうした試み=革新が失敗することにより、慣性を保つという自己保存に無意識は成功しつづけているんだけど。そして変わらなくていいという安心を得るのである。