原則とバリエーション

世の中に、「原則」を現すお言葉は、The Bookと称される聖書や教典を筆頭に、じゃりんこチエのおばあはんの「不幸は、さむい、ひもじい、死にたいの順にやってくる」迄、数多存在する。
カタチとしては数多存在するけれど、そのいわんとする内容自体はそうそう多様性にとむ訳ではない。と、いうことは原則というものはいくつかに集約が可能であるということでもある。したから、性格判断なる世界観が確立できうるのである。
しかし、「原則」としていくつかに集約したからとて、それを実行する人間自体の営為が、千差万別だから、それに従って「原則」の現れ方も、バリエーションをもたざるを得ない。他者の考えうるそうした任意の価値観=世界観がいつも自己とズレるのはそゆ訳であって、数多の占いや心理テストやコーチング診断や御信託を受けてみたところで、自己営為を決定しようという意志のないひとは、永遠に自己は把握出来ないであろう。(ということは、逆に、自分でそうした心理テスト=分類図をこしらえてみるのが、一番、自己の価値観=世界観を可視化することになるんだけどねー)
確かにどうにもならない運命的な状況はあるが、それについてどう解釈を為すのは自己行為である。「なにも出来ない」も含めて、ひとはそうして状況に関る。
特に、米国式のこうした心理テストや性格診断というのの背景にある思想を無視しつづけてる限り、どんなセミナーを受けようとも決してトレーニングの成果は現れない。予めこうしたトレーニングの先に示される「あるべき姿」(大抵ひどくレンジの狭い使いがってのわるい理想像だったりもするんだけど)を把握&納得してないかぎり、無意味なものとなってしまう。
ま、それでもそゆことをしてる前向きなアタシという自己満足な成果があるから、いーのか。それはそれなりに。