いってることと、やってること

音楽話をしていたら、博識な知人が「シェーンベルグが解らん」といいだした。それを受けてもう一人の博識が「自分も解らん」といった。まーそゆこともあるよなーと、ワタクシはそれを聞いていたのだが、ハナシはそこから妙な方向に進む(ちなみにこの博識2名は、音楽修業はしてないがいろんなジャンルの音楽を聞いてはいる)。「解らん」ので、いろいろ本を読んだり(現代音楽作曲者自身も論考をいっぱいカキコしてるケースが多い)して、「理論」は解るけど、音楽そのものが解らんのだそーだ。いや、だったら聞かなきゃいーぢゃんとワタクシ思うのだが、どーやら、この博識サン達は、「シェーンベルグが解らん自分」とゆーのに納得がいかないよーなのだ。「理解しなければならない」という意識で多ジャンルの音楽を聞いてるというのも、苦行だな〜。ちょと唖然。一種のマニア行為ってそゆモンなのか。ちなみにワタクシとしては、音楽を含めて芸術は「ヤルもの=体感共有」という意識が第一にあるんだけど。
この博識サンの行動意志&作為の第一目的は「いかに理解するか」とゆーことなんだな。聞いた結果「理解できない」というのは目的を果していないから、納得いかないらしー。シェーンベルグに限らず、現代音楽はコンセプチャルなものなので、そのコンセプトを音譜の整合性に落とすことが表現というシステマチックなもので、それだからこそ、逆に論文言語思想になじんでいる方々には解りやすいんぢゃあないかとおもうんだが、暗に相違して、「解らない」のでよけい、いぶかしいんだろう。
と、ゆーことは、自分たちが認識してる=いってることと、やってることが違うってことなんだけど。「音楽の快楽」というエモーショナルな価値観と、「音楽はこう解釈するもの」という言語価値観の整合性が自己の中でとれないだけなんだけど、他のジャンルの音楽ではこうしたことがクロスする体験がなかったんだろうな。そして、自分の価値観として「言語思考」が優位と思い込んでいて、そうであらねばならぬという意識が強すぎる故に、そうでない思考が自己の中でコントロール不能になったとき、齟齬が表面にでてきたもんだろうな。
これに関する答えは、プロセス体験。分析なんかあれこれするより、やればわかるさ@猪木につきるんだけど、大抵こゆ人は「理解した」時点で、思考&自己目的は終わりなんだから、実地とかのプロセスとか成果を出すといったその先にはむかわない。世の「知識人」ってののワケワカメな中途半端な提言&行動って、そゆことなんだろう。