かまやつ女*2

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仲俣さんがお書きになっているとおり、郊外化による均一を「ジャスコ文明」とネーミングする三浦展の考えは理解できる。しかしそこにあらゆる現代的課題の巣窟が結集したことと、問題にした「かまやつ女」カテゴリーは、同一にまるめるにはつかみヨタとしてはインパクトあれども全体の整合性から見てみれば、音楽/ファッションなどの文化ジャンルからしても論理の飛躍がありすぎる。アクロスから出た『「東京」の侵略』という三浦の著作によれば、「かまやつ女」生息地の下北沢は吉祥寺までの「第三山の手」ゾーンに位置。この1987年の本では、南限を第四山の手ゾーンを厚木/藤沢としている(アマゾンにはないなぁ『「家族と郊外」の社会学―「第四山の手」型ライフスタイルの研究』ISBN:4569549241)。最近の彼の著作は読んでないまま書くが、「ジャスコ文明」といったものとリンクさせる「下妻物語的」なものは、この三浦の追う南西に拡大する「山の手」=アメリカ追随/拡大志向団塊世代的なもの(神奈川/東京都下圏)とはまた違う、ローカルでありつづけることを指向する郊外文化が、「ちばらぎ」=千葉/茨城圏なんではないかと、ワタクシ考える。かってバブルの頃にはチバリーヒルズぬぁんてのもあったりはしたけど、アレは例外中の例外。そして、その「山の手」指向文化が90年代以降、「家族/家庭の崩壊」とともに郊外問題として表面化してきた。余裕のある家庭程、そうしたとこからの脱出、都心回帰が起こり、ニュータウン郊外が見捨てられた時、郊外の輝きはなくなった。が、しかし、それでは、すべからく郊外には文化の営みがなくなったのか?といえば、そんなことはない。それは単にアッパー文化が保てなくなったということだけだ。逆に今、それだからこそ、昔から続けられてきた営みが地域アイデンティティとするラインに、ジャスコ的な大型ショッピングモールがフィットしてパワー(手堅い商圏がつくる文化圏)を見いだしているというところではないだろうか。…ま、アメリカ的郊外なるものが、 合衆国としての拡大指向とは別に、いかに土着ローカル(まさにヤンキー文化そのもの)であるかということを示すことであるかもしれない。とまれアッパー/ロゥアー指向にかかわらず、東京自身がそうした者たちであふれかえる唯一の田舎と化して久しいのではあるが。戦後ずっ〜と信仰され続けてきたアメリカ・アッパー文化(ダイエー)が総くずれな時代に、いままで無関心故に無風だった都心(&首都圏)「東方面」文化が、無風ゆえにたもってきたローカル身の丈パワーというものに着目せざるをえなくなり、焦点があたってきたんぢゃあないだろうか。
さて、ジャスコ文明を主眼とするなら、下北沢/小西康陽というのはまったくもってそれにフィットしない。ムッシュは、どー考えても山手線内の「第二山の手」だろう。そしてそんなヤンキー的土着展開とは、2人とも距離がありすぎる。いわゆる「オサレ系」はそゆベタなノリを表面的にはさけるかもしくは周辺になかったことのようにふるまうのが、オサレ/スノッブのスタイリュシュな行動規範だったのであるから。コンビニならまだしも庶民的スーパーで日常生活を賄ってはいけない(笑)。
今時、東大とか外国留学をウリにするもうひとりのタレント・カテゴリーはまさに、見捨てられた郊外が背景な典型的アッパー系そのものに見えるけどな。いじの悪い言い方をすれば、90年代「第四山の手郊外文化」説で彼の社会学的構図が学問世間的にフィットした為に、そこ(=立ち位置=商圏)で価値観をさぐるのを止めて、その縮小再生産マーケットに始終してる感があるんだけどなー。で、そんな感覚が、90年代までのゾーニングにはまらない「かまやつ女」的にまるめられた人々をわかろうとしないまま、カテゴリーして片付けようとするのかと。
さて、そおんなマーケ屋=商売は小馬鹿にして終了というのが「知識人」としてソツない?やり方なんだろうけど、それはちょっと待ったなんである。商売をバカにして消費文化は語れないとおもうんだわ。それはなにより三浦自身にいえることだ。知識人コンプレックスとゆーかルサンチマンとゆーか、そんな気配を濃厚にただよわせるとこが、アッパーたる由縁だし様々な自己動機ともなる。だけどパルコ商売をセゾン文化にする的な成り上がりロジック、商売→文化つー士農工商的上下関係(上部/下部構造)てトコからヌケださない限り、どんなカテゴライズしよーとしまいと、「古い」理屈で新しいものを排除してるって構図になっちゃうのではないだろうか。そしてそんなことは、実際行われているジミで地をはうようなマーケティングや商売の積重ねとは、まったくもって関係ナイ。