コミュニケーション支配

時代の意識とともに、語句も変われば表記も変わる。ことばは「正しさ」だけが命ぢゃないやい。理論でもへ理屈でも感情でも、その時伝えたいことが伝わることが、表現コミュニケーションの道具としてのファースト・クオリティなんだもん。ことばとは、ことば自身がもつ言霊的思想と、使用者の概念(言葉遊び)と、時代/文化による解釈の三角関係でユレる機能を持たざるを得ないものなんだろうね。数学記述のように理論的に厳格でない分、そしてそれだからこそ「表現/解釈の幅」=多様性を保持するという側面があるのかも。
そう考えると、ハイコンテキストなトコにある者が、得てしてジャングル的曖昧記述を好むのは、解釈の意味を含ませることによってある種、発現者としての〈個〉の内なる多様性保持という面があるのかもしれない。ローコンテキストの場合は、その多様性は〈個〉の外部でもって保持される。ハイコテキストなべったりの完全強制同調の上意下達をもって終了する支配構造が強まるなら、そもそも会話すること事態が意味不明になるものね。あいづちを打つ(賛同の意)以外には、会話の余地=コミュミケーションがない。
あ〜、そか。「オトコは論理指向」的なことはよくいわれるけど、ジェンダーは別にして、ことばには「なにか意味がなくてはならない」を追い求める病、論理的であることはいいことというのが、まず先に価値基準としてあるよな。コミュニケーションは対話呼応というのが、かなり堅い意味(単一)をもってしか解釈されていない。ナンセンス、無意味/不条理会話とか、ネタをこうしてころがしていると、マジ怒り出すひとがホントいる。しかし、日本の殆どのお笑い芸能とかはそんな表現ばっかぢゃん。そゆひとにとっては、きっと面白くないんだろうな。
上意下達ヒエラルキー的論理を極めて?身体化した自身は、解釈の硬直(=ひとつ正しい意味)が「AならばA」法則的な堅い表現となり、喋りベタとなるのか。結果、あまりにもハイコンテキストなお約束の場では「表現/解釈の幅」=〈個〉がなくって、コミュニケーション不全に苛まれる(自発的にコミュニケーション発信すべき〈個〉=表現が見いだせない)ってケース。実はないんぢゃあない。ハイコンテキスト・ヒエラルキーにいてそこにいること(立ち居値)を保持しようとする気持ちが強ければ強い程、そこに適応している以外の表現の入出力を自ら排除して「純化」しようとするのが手っ取り早いと考えるんだろう。その気持ちが高ければ高い程に、現実、(ヒエラルキー下層ゆえ)あいづちすれど誰もしてくれない?一方方向で承認されない淋しいオレ様ってのでコジレるのが、結構多いのかなぁ。>「認めて君」現象
そしてまた、ハイ・コンテキスト自体も、そんな不全感を持つ人々が多いからこそ、「とりあえずいまはAと表現しとけばOK!」なハヤリ言葉の表現自体がめまぐるしく変遷することで、なんとか全体としての表現の幅を保持しようとしているのかもしれないな。むろんその速度についていけなくて脱落してコジレるという回転速度だけはだんだん早まっているんだろうけど。